日本3大奇襲、その真実と結末。野田首相の「奇襲」の結果は?
野田首相が党首討論で突然「解散」を表明したのは、誰しも驚きました。
一番、驚いたのが自民党の安倍総裁だったようで、1対1の戦いとしては、野田首相の奇襲が成功したというのが、おおかたの見方でしょう。
では、この「奇襲」が局面を打開するまでのものになるのか?それがどれほどの効果があるのか。
きっと週明けくらいの世論調査で、ある程度は支持率が上向くのでしょう。
そうなれば「やはり奇襲はすごい」と思う人もいるかもしれません。
ところが、「奇襲」こそが、日本を決定的に破壊、破滅の寸前にまで追いやった、もっとも危険な選択なのです。
日本史上3大奇襲の真実と結末を紹介しましょう。
「3大奇襲」は恵美嘉樹の登録商標です(ウソ)
ひとつ目は、なんと言っても、
織田信長の桶狭間の戦いでしょう。
上洛(京都へのぼること)しようとする駿河の大名、今川義元の通過点である尾張の大名、織田信長が迎撃。多勢に無勢ながら、油断して谷間で休憩していた今川義元を、ぐるっと迂回、奇襲をかけて、義元の首をとった戦い――というのが一般的な常識でしょう。
ところが、この「迂回奇襲」作戦は、まったくのデタラメだったことが近年の研究で判明したのです。今は一部の人をのぞいて、歴史研究家で、桶狭間の戦いが迂回奇襲作戦が成功したことが原因とする人はいません。
常識と違う真実の桶狭間とは、
1)桶狭間は谷間でなく、丘の上
2)信長は迂回したのではなく正面攻撃
3)今川は油断して休んでいたのではなく、信長方の拠点を落として略奪中だった(ため信長の急襲に対応できなかった)
なのです。
突然の雨で視界がほとんどなくなった、など、信長にとっては幸運で、結果的に「奇襲」ではあるのですが、信長が計画した作戦とおりの展開ではありませんでした。
信長が偉いのは、この「たまたま」の勝利を、「自分の力」「自分の作戦勝ち」などと思わなかったことです。
信長の戦史をみると分かりますが、これ以降、劣勢の状態で、多勢の敵に相対することはほとんどありません。味方の裏切りなどで劣勢になると、奇襲などかけずに、すぐに撤退しています。
そうとうに、桶狭間の戦いが「あぶなかった」と痛感していたのでしょう。
ところが、当の本人である信長が迂回奇襲なんて妙な作戦はもちろん、奇襲すら使わなかった(ただし、電撃戦は織田軍の基本戦術のひとつです)にも関わらず、のちの時代に、迂回奇襲を使って、自爆した人たちがいます。
この桶狭間が迂回奇襲であると「定説化」した旧日本軍です。
しかも、信じがたいことに、旧日本軍はこの作戦=敵が優勢の時は迂回して奇襲をかければ勝利できる、こそが究極のメニューと分析し、実行してしまいました。
二つ目の「3大奇襲」はそんな歴史を軽視したがために起きた、悲劇です。
(続く)
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