意外な常識、聖徳太子のお墓は飛鳥にも斑鳩にもない
実は日本に2つの飛鳥がある、ということはご存じでしょうか?
712年に成立した日本最古の歴史書『古事記』には次のようにあります。履中天皇の弟(のちの反正天皇)が難波から大和の石上神宮に向かう途中のことでした。その途中に2泊し、難波に近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けました。
世界文化遺産に指定されて有名な「飛鳥」は「遠つ飛鳥」(今の奈良県明日香村)です。
一方の「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさします。
「近つ飛鳥」には非常に重要な、天皇や皇族の墓があります。
敏達天皇、用明天皇、推古天皇、聖徳太子、孝徳天皇です。これらはほとんどが蘇我氏に関係の深い人物です。
残念ながら、他の天皇陵と同じく、これらの墓は発掘調査をすることができません。宮内庁が「陵墓」に指定し「保護」しているからです。
そのため、実際に推古、聖徳太子、孝徳らが眠っているかどうかの確証こそありませんが、古い記録と照合しますと、少なくともこの地域に各天皇らの墓があったことは確実です。
これらは磯長谷(しながだに)古墳群とよばれています。
古墳時代の中頃には、大王(のちの天皇)クラスの墓には大型の前方後円墳が採用されました。それの代表的なのが仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)をはじめとする大阪の百舌鳥・古市古墳群とよばれる古墳です。
しかし6世紀後半になると、ここ大阪(河内)と奈良(大和)の間に位置する磯長谷とよばれる細長い山と谷があつまるところに大型墳が出現しはじめました。
この地域には記紀に記載された天皇の墓が数多くあるとの伝承があり、エジプトの「王家の谷」になぞらえて「王陵の谷」ともよばれるようになりました。
なぜこの地=「近つ飛鳥」に陵墓がたくさん建てられたのか、実はよくわかっていません。
『古事記』には、反正天皇は海から陸へと向かったとあります。反正天皇が歩んだ古道を「竹内街道」といい、古代の重要な幹線道路でした。この街道を難波の港から、いわゆる飛鳥=遠つ飛鳥を目指して、この谷にくると、モニュメントとしての墓が即位の順序どおりに並んでいるのです。
なお明日香村の「明日香」は近年作られた当て字です。
難波の港から来るのは外交使節。まさしく、「王陵の谷」にふさわしい「建造物」だったにちがいありません。
この地を糸口に、古代王権のなぞをとく鍵が潜んでいるのかもしれません。
この陵墓には蘇我氏に関係の深い天皇、皇族が多いのも特徴です。
古代史の最重要の氏族でありながら、出身地すらはっきりしない氏族。
その蘇我氏の真実を読み解く場所のひとつでもあるのです。
以上、
過去のエントリーから「もう一つの飛鳥物語」でした。
↓写真は「遠いほうの飛鳥」の石舞台
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