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歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

浅井長政の失敗?痛恨の裏切り招いた文書、、、かもしれない

戦国時代

11月12日の歴史ニュースアラカルトでさらっと触れたニュースですが、きのうのNHK歴史秘話ヒストリアに触発されて、もう一度チェック!

浅井長政が姉川合戦で親族を戦死させた臣下への感謝状公開」というニュースがありました。

ソースURL: http://mainichi.jp/feature/news/20121109ddlk25040496000c.html

 戦国時代、北近江を支配した小谷(おだに)城主、浅井長政が、織田信長徳川家康連合軍と戦った姉川合戦(1570年)に触れた書状が、長浜市大依(おおより)町の浅井歴史民俗資料館で特別公開されている。数ある長政の書状の中で、長政自身がこの一大決戦について語る現存唯一の古文書で、同館は「長政にとっていかなる戦いであったかがよく分かる、非常に価値の高い史料」という。
 (略)
 合戦の翌年、家臣の阿閉甲斐守の息子ら一族が討ち死にしたことを慰め、信長との戦いが終息したあかつきには恩賞を与え、阿閉家の跡目も取り立てることが記されている。
 (略)

阿閉といえば、阿閉貞征(あつじさだゆき)が有名です。
もともは浅井長政の家臣で、山本山城という冗談のような名前ながら、超重要拠点を守っていました。
1573年=元亀4年(この年、途中から天正元年)、足利将軍が反信長を号令して、近畿の各勢力が一斉に「立ち上がれ太陽の党」となりましたが、蜂起したトップの石原さん、ではなく、将軍があっさり敗北。

それで、「やばい」となった阿閉さんは、信長へ下り、信長はこのチャンスを使い、一気に越前(福井)の朝倉氏を滅ぼし、返す刀で、浅井氏も倒してしまいました。まるでオセロの角をとったような展開になったので、通称、阿閉さんは「角クロ」と呼ばれて、いません(今考えました)。

この人、信長公記では「阿閉淡路守」と出てきます。で、今回の文書ですが、「阿閉甲斐守」なんです。
「淡路」と「甲斐」が違う。 同一人物?それとも親子?親戚?

この文書の阿閉が、貞征と同じ人、もしくは同じ一族だった場合は、なぜ貞征が浅井を裏切ったのかの理由にもつながりますね。
単に情勢が悪かったから、だけではなく、

「信長との戦いが終息したあかつきには恩賞を与え、阿閉家の跡目も取り立てる」という条件がムリすぎたから。

たとえば、野田「こんどこそ、こんどこそ、民主党に300議席いただき、日経平均が5万円になり、韓国が竹島くれれば、子ども手当ひとり10万円。高速道路は乗ると逆にお金あげます」とマニフェスられても、国民「ムリ、ムリ。あきらめました」みたいな。

この文書については、この文書を展示している浅井歴史民俗資料館学芸員さん(?)がされているブログに説明があります。
http://sirmurai.cocolog-nifty.com/chible/2012/10/post-f7ea.html

この度、長浜城歴史博物館が新しく手にいれた「浅井長政関連史料」が、当館で初公開されます。

この文書「浅井長政書状」は、姉川合戦の翌年の5月5日、長政が家臣の阿閉甲斐守に対して発した書状です。内容は、子息五郎右衛門を初め家臣が討ち死にしたことについて慰め、今後織田信長との戦いが収束した段階で、恩賞等を与えるとした感状です。さらに、長政は、子息が討ち死にした関係で、阿閉家の跡目をしっかり立てるべきことを助言しています。

この文書は、浅井長政が姉川合戦について触れた、現存する唯一のものといえます。

特筆すべきことは、長政が姉川合戦のことを「辰鼻表合戦」と呼び、「姉川合戦」と書いてないところです。「姉川合戦」は、後の徳川幕府によって権現様のご威光をたかめる(浅井応援団としては、秀忠夫人の江の親元も美化したかった)ため、かなり誇張されたものとの推論の根拠の一つと考えることも出来ます。

なお、この宛先の阿閉甲斐守が、山本山を守り寝返った阿閉貞征とどういう関係にあったのかは、現段階では分かっていないそうです。

どこかの古物商から手に入ったそうですが、お値段は近く記者発表されるとか・・・、お楽しみに。

写真  今回、初お目見えとなった「浅井長政書状」

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