歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

さあて!きょうの歴史ニュースいってみましょう!

数日たまっておりますので膨大ですよ!
キリストの妻の後始末から、古代、平安時代、戦国時代、江戸時代、そして中国、そしてそしてアニメ!のラインナップです。

=写真は福島の国宝、白水阿弥陀堂恵美嘉樹撮影)
=写真は豪族益田氏のアニメ

  • 神よ!紙よ!髪よ!

 キリストが結婚していた!!という衝撃のニュースがはしったのは9月のことでした。
 実を言うと、衝撃ではありませんでした。神道仏教派の恵美嘉樹としては、「お母さんが処女で、自分は童貞?!マジですか」と心の底で密かに考えておりましたもので・・・。
 
 何年か前には、ナショナルジオグラフィックが「ユダは裏切り者じゃなかった」と、明智光秀ファンを喜ばせ、北斗の拳ファンを愕然とさせたニュースがありました。キリスト既婚もユダ裏切り者じゃないも、キリストを人間としてみようという一派の考えにすぎません。

原典 ユダの福音書

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ユダの福音書 DVDブック ビジュアル保存版

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 歴史的な事実がどちらかは別にして、最終的にはそうした宗派は異端とされ、登場人物みなピュアという現在の宗派が主流となったというだけです。
 キリスト系新興宗教のモルモン教徒のロムニーさんが大統領になっていたら、モルモン教は一夫多妻制OKらしいですから、「キリストには複数の妻がいた」くらいになっていたかもしれませんねぇ。

キリスト既婚説:波紋広がる 米で活発「女性の地位」関連− 毎日jp(毎日新聞)
ソースURL: http://mainichi.jp/select/news/20121108k0000e030255000c.html

 独身だったとされるイエス・キリストに「妻」がいた可能性を示す古文書が見つかったと9月に報じられ、キリスト教界に波紋を広げた。「イエスの結婚」はカトリック教会のタブーだけにローマ法王庁バチカン)が反応したのは当然としても、専門家が相次いで疑問を呈し、真偽論争まで巻き起こすに至った。その背景は何か。【ローマ福島良典】
 問題の古文書を解読し、9月18日にローマで開かれた国際学会で発表したのは米ハーバード大神学大学院の歴史学者、カレン・キング教授。4世紀後半のものとされるパピルスの断片(縦約4センチ、横約8センチ)には、古代エジプトコプト語で「イエスが彼ら(弟子たち)に言った。『私の妻は……』」(続きは断裂して不明)、さらに「彼女は私の弟子になれるだろう」との記載があった。
 カトリックの伝統的な見解ではイエスは結婚しなかったとされる。キング教授はパピルスについて「イエスが結婚していたことを証明するものではない」と断りながらも、古文書が書かれた時代の信者の間で「イエスの結婚」が議論されていた証拠??と見る。
 これに対して、バチカンは日刊機関紙オッセルバトーレ・ロマーノを通じて「パピルスは下手な偽造品」(ジョバンニ・マリア・ビアン編集長)と一蹴した。パピルスは遺跡発掘で見つかったのでなく、骨董(こっとう)品市場で入手されたとされ、そもそも本物ではないという主張だ。「(新約聖書の外典)『トマスによる福音書』の写本の切り張りだ」と指摘した英教授や、使われた字体から偽造説を唱える専門家もいる。
 パピルスを本物と仮定した上で、「妻」の解釈に疑問を投げかける意見もある。学会を主宰したローマ大学史学部のアルベルト・カンプラニ教授(51)=キリスト教・教会史=もその一人。「イエスが『私の女性』と言う場合、自分に付き従い精神的なつながりを持つ人物のこと。パピルスの『妻』も象徴的な意味」と解釈する。イエスの言動を伝える福音書にイエスの結婚に関する記述はなく「当時、信者の間で話し合われたことはなかった」と結論付ける。
(略)

  • 神と生きることを継承する難しさ

 卑弥呼は文字通り巫女でした。科学の広がっていない前近代においては、人間のまわりは「分からないことだらけでした」。分からないことを、なんらかの「理解できるもの」にすることは、人間の精神衛生上大切なことです。宗教というのは、すべてこの「分からない不安」から芽生えたものです。
 日本社会では、卑弥呼の時代から、いやそれ以前から、今でも巫女やシャーマンという存在が多かれ少なかれ存在しています。
 ただ、分かることが多くなった現代では、その存在は小さく小さくなっています。
 とはいえ、人間の心は原初からそうしたものに頼りたがる性質。
 ときどき、女性をリーダーとした不可解な事件が起こります。こうした女性も時が違えば、優秀なシャーマンや巫女として、社会を先導する立派な功績を残したかもしれないのに、と恵美は時々思いながら、ワイドショーをお菓子を食べながら視ています。

シンポジウム:「神との日常」難しい継承 明治大で「宮古島の神とシャーマン」− 毎日jp(毎日新聞)
ソースURL: http://mainichi.jp/feature/news/20121112dde014040112000c.html
 沖縄県宮古島の神と祭りの世界に触れるシンポジウム「宮古島の神とシャーマン」(明治大古代学研究所・宮古島の神と森を考える会主催、毎日新聞社など後援)がこのほど、東京・神田駿河台の明治大で開かれた。本来は島の祭りだけで歌われる神歌や、現役のシャーマンによる特異な体験談が披露され、21世紀東京の真ん中に異空間が出現した。
 シンポでは、まずシャーマン誕生の「成巫(せいふ)体験」が生々しく語られた。ある日突然、幻覚や幻聴に見舞われたり、ひたすら歩かされたりする心身の異常な状態「神ダーリ」を経て、シャーマンになるという。その一人は「神は地域を守れ、自然を守れと言っている。しかし、見えない世界をどう語り、神の声をどう地域につないでいくかは難しい」などと話した。
 一方、島の祭りで「神役」を務めた女性たちの経験談も興味深かった。この人たちはシャーマンのような特異体験を持たず、集落から「神くじ」で選ばれた普通の女性。しかし、祭りを行う中で、覚えるのが難しい神歌の歌詞を神から教えられるといった不思議な体験をしたと紹介し、「神様は本当にいます。神様に選ばれてよかったと、みんな思っています」などと話した。
 神の存在が息づいている宮古島のこうした日常について、居駒永幸(いこまながゆき)・明治大教授(同会会長)は「シャーマンと神女の境界があまりはっきりしていない。そのことを知ってもらえれば」と解説した。
 神と生きる島である半面、宮古島では祭りをつかさどる神女の後継者不足が深刻だ。大事な祭りが途絶えている地区も少なくない。しかし、その一つの狩俣集落では今年、不在だった最高神女のアブンマを選出でき、1997年が最後だった祭りのひとつを復活させた。報告に立った内田順子国立歴史民俗博物館准教授は「神歌は行事の時に歌うべき人が歌うのが本来。その人でないと、なかなか次の人に教えられない。今度の祭りでもいろいろ戸惑いがあった」と話し、いったん途絶えた祭りの継承の難しさを説明した。
(略)

さて、ここからは時代ごと、地域ごとにいきます。

  • 【古代】ニュース
  • 来年は美作国建国1300年

 ここのところ、平城京遷都やら、古事記やら、、、、1300年記念というのが多いですね。それだけ奈良時代というのが、時代を画する大変革の時代だったということでしょう。

 で、「美作」。なんて読むでしょう。
 よさく?
 びさく?
 答えは「みまさか」です。
 吉備というのは、今の岡山県広島県東部。もともとは、吉備王国とも言われるくらいに大きな国でしたが、大和から目を付けられ、備前、備中、備後、そして内陸の美作の4つに分割されてしまいました。
 立ち上がれ日本の代表のなんとかさん、忘れました、の本拠地です。
 記事では、吉備がすごいことは分かりますが、なんで美作国ができたのかは分かりませんね。残念。。。

新たな視点で吉備の起源に迫る 総社でおかやま文化フォーラム - 山陽新聞ニュース
ソースURL: http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2012111020515775/

 第2回おかやま文化フォーラム「見えてきた古代吉備の実像」(岡山県、県郷土文化財団など主催、山陽新聞社共催)が10日、総社市窪木、県立大講堂であり、文献史の大家、考古学の一線の研究者らが、新たな視点から郷土の起源に迫った。
 日本古代史を国際的な視野から研究する鈴木靖民・横浜市歴史博物館長(国学院大名誉教授)が基調講演。吉備は、畿内と北部九州を結び、朝鮮半島から東アジアへ広がる広域交通網の要衝にあり「人、物、情報の上陸、中間地点として発展した」と指摘。大和王権の支配体制に組み込まれた後でも外交、軍事面で大きな役割を担い続けたと評価した。
 パネルディスカッションでは、民俗学者神崎宣武氏のコーディネートで鈴木氏、平井典子・総社市教委文化課課長補佐、岩崎充宏・山陽新聞社文化部副部長が登壇。「吉備を根本で支えたのは豊かな農業生産力」(平井氏)や「大和に敗北したのではなく、一緒になり、より大きな勢力を形成したと考えられる」(鈴木氏)といった多面的な考察に、詰め掛けた約450人は熱心に聞き入っていた。
 2013年の美作国建国1300年に向けた記念事業の一環。

  • 森浩一さん退院!

 森浩一さんは、お歳なのに「ぼく」ということで(?)、一般にも有名な考古学者ですが、透析をされているとかで、4月からずっと入院されていたのですね。退院されたすぐに和歌山で講演したとのこと、まだまだ頑張ってください。
 

御坊で歴史シンポジウム - 日高新報 Web Hidaka
ソースURL: http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2012/11/post-4769.html
2012年11月13日
 市、市教育委員会等主催の「御坊歴史再発見シンポジウム 有間と宮子〜御坊・日高に眠る古代史開眼〜」は10日、市民文化会館大ホールで開かれた。600人が来場。岩内1号墳への埋葬説がある悲劇の皇子「有間皇子」、文武天皇妃・聖武天皇の生母で道成寺創建にかかわる「宮子姫」についてさまざまな角度から考察し、日高地方の古代史が秘めるロマンに思いを馳せた。コーディネーターは「その時歴史が動いた」等でおなじみの元NHKアナウンサー松平定知さんが務め、歯切れよくユーモアあふれる名司会ぶりを披露した。
 第1部は、 有間皇子の岩内埋葬説を立てた同志社大学名誉教授森浩一さんの基調講演。 森さんは体調を崩して4月から長期入院しており、 この日は退院直後。 シンポジウムに間に合わせるため帰宅もせず御坊に駆けつけたという。 病を押しての熱弁に来場者は一心に聞き入った。 講演では、 携わっていた雑誌に御坊市からの投稿があり岩内1号墳を知ったことを説明。 刀など立派な副葬品、 当時としては珍しい漆塗りの木棺から被葬者は皇族か有力者と推定、 有間皇子の父孝徳天皇に 「塩屋連 (しおやのむらじ)」 と呼ばれる重臣がいたことなど当時の状況から有間皇子説を主張した経緯を話した。 歴史における和歌山県の重要性についても話し、 「ぜひ 『紀州学』 を進めてほしい」 と締めくくった。
 シンポジウムでは、 松平さんはまず 「御坊市は長年訪れたいと思っていた」 と地名の起こりの日高別院の歴史をひもといてから、 森さん、 同志社大学教授駒木敏さん、 映画監督郄山由紀子さんの3人のディスカッションを進めていった。 駒木さんは古代文学研究者として 「岩代の浜松が枝を引き結び真幸 (さき) くあらばまた帰り見む」 など有間皇子の有名な万葉歌を解説。 皇子の没後40年余りを経て、 道成寺が創建された大宝元年 (701年) に文武天皇と祖母の持統天皇紀州行幸した際、 皇子を悼む歌が詠まれていることを話した。 「娘道成寺 蛇炎の恋」 を監督した郄山さんは、 宮子ら古代史の女性に感じる時代を超えたロマンについて語った。 森さんは、 有間皇子は無実の罪を着せられたとされるが 「実は世直しを意図して積極的にクーデターを考えていたのではないか」 との説も披露した。
(略)

 民主党に政権した直後、この紋所=マニフェストが目に入らないか!とやって、色々なことにストップをかけていたときは、いいんだか、悪いんだか分からないけど、「これが維新かぁ」って感じしていましたね。
 いつの時代も政権交代したら、ちゃぶ台ひっくり返しは基本です。

奈良新聞  大安寺は「未完の大寺」? - 平安遷都で工事中断か
ソースURL: http://www.nara-np.co.jp/20121111102749.html

 南都七大寺の一つに数えられた奈良市の大安寺で、東西両塔の周囲に想定されていた築地塀や南門が存在しないことが、市埋蔵文化財調査センターの調査で分かった。同センターは、僧侶の養成施設が優先されて塔周辺の整備が後回しとなる一方、平安京への遷都で工事が中断、「未完の大寺だった」との見方を強めている。
 史跡整備に伴い、西塔南側(同市東九条町)の約900平方メートルを発掘調査。南門が想定された塔院中軸線上では奈良時代の川跡が見つかり、南門や南面の築地塀は存在しないことが分かった。
 西面の築地塀も遺構はなく、二つの塔がさえぎるものもないままそびえ立っていたことが分かった。造成工事も一部にとどまり、西に傾斜する地形がそのままだった。
 大安寺は二つの塔が南に独立した伽藍(がらん)配置で、東塔が奈良時代後半、西塔は奈良時代末〜平安時代初めに完成したと考えられている。いずれも七重だったが、平安時代に焼失した。
 天平19(747)年に同寺が作成した財産目録には「四坊塔院」と書かれており、区画施設のある「院」として計画されていた。
 同寺が所蔵する江戸時代の絵図は元資料が不明だが、両塔の周囲に区画施設は描かれていない。
(略)
 大安寺は飛鳥に営まれた大官大寺が前身で、平城京に移転して大安寺となった。僧侶の養成大学でもあり、約900人の僧侶がいたとされる。
(略)

 宮城県多賀城は、西の太宰府と並ぶ、国家直営の地方拠点でした。
 でも、今は仙台の街から離れていて、田んぼと畑と林の中という風情です。でも、当時は松島湾仙台港)に直結する豊かで、重要な交通の要所だったことが想像できます。古墳時代にも貝塚を作るほどの貝生産が盛んだったんですね。
 貝塚といえば=縄文と思いこんでいました。
 がんばっぺ東北!

山王遺跡:古墳時代の豪族の居館跡、貝塚層も 都城創建前に生産・技術力??多賀城 /宮城− 毎日jp(毎日新聞)
ソースURL: http://mainichi.jp/feature/news/20121110ddlk04040038000c.html

 県教委は、多賀城市南宮の山王遺跡八幡地区で、県内では珍しい古墳時代中期(5世紀)の豪族の居館跡や、高度な漁労具などを伴った同後期(7世紀)の貝塚層などを発見した、と発表した。この地域が古くから仙台平野の中心地の一つで、多賀城創建(724年)につながる生産力や技術力の基盤を備えていたことが明らかになった。
(略)
 古墳時代の居館は、一般的なムラとは異なり河川流域を支配する有力者とその配下の衣食住、政治、祭事などの拠点。今回、居館跡を囲む幅約4メートルの堀跡と推定高3メートルの材木塀跡が南北約70メートルにわたって確認され、住居や工房など居館内で現在までに見つかった建物跡は28軒に上る。
 このうち、鉄製品の鍛冶場とみられる工房跡からは、ふいごの先端につける羽口(はぐち)や砥石(といし)などが出土し、当時の最先端技術が導入されていたことがうかがえる。
 また貝塚は、当時の河川の蛇行地点に広がっていた。カキ主体の貝殻や鹿の骨を使ったモリ、ヤスなどの精巧な漁労具のほか、模様入りの小刀の柄や占い具なども見つかり、100戸単位の大規模集落のゴミ捨て場だったらしい。住民は船で川を下り、南側の現七ケ浜町付近の海と行き来したとみられる。
(略)

  • 淡路島最古の木簡

 出挙(すいこ)というのは、国が強制的に武富士以上の高利で庶民に貸し付けをして秋になると取り立てるすごい仕組みです。受験に出ますよ!

田井A遺跡:淡路島内最古の木簡出土 奈良時代の3点、祭祀用に加工し再利用? /兵庫− 毎日jp(毎日新聞)
ソースURL: http://mainichi.jp/feature/news/20121109ddlk28040325000c.html

 淡路市志筑の田井A遺跡から、島内では最古の奈良時代の木簡が見つかり、県教委が8日、発表した。出土した木簡は3点あり、うち1点は種籾(もみ)の貸し借りを記した「出挙(すいこ)」に関連する帳簿木簡の可能性が高く、廃棄された後に祭祀(さいし)用具に加工されたとみられる。また、祭祀に使われる木製の人形(ひとがた)も24点以上が出土した。県教委は「当時、木簡を使用したり、祭祀を行えるのは役所「官衙(かんが)」か有力豪族だけで、付近一帯に役所か豪族の館があったのではないか」としている。10日午後1時半から同市志筑の中央公民館で調査説明会がある。【登口修】
 同遺跡は志筑川と宝珠川に挟まれた沖積地にある。志筑地区の浸水対策事業に伴い、09年度と11、12年度に計3300平方メートルを発掘調査した。これまでの調査で、飛鳥時代の区画水田跡▽奈良時代の河川跡▽平安時代末?鎌倉時代初めの集落跡??が確認された。
(略)
 木簡は長さ8ー23センチ。廃棄された後、祭祀の際に結界を張るための斎串として再利用されたとみられる。奈良文化財研究所で判読したところ、うち1点(長さ13センチ)には「□□□□□五把(わ) 上□一束五 未□二□」の文字が解読できた。役所や豪族が春に種籾を農民に貸し付け、秋に利息を取って稲として回収していた出挙に関する帳簿木簡の可能性が高い。
(略)

 屋島は海に突き出た島(今は陸とつながっている)ですが、源平合戦屋島の戦いは、この島の山頂めがけての戦いではなく、海上なんですよね。どうして平家は屋島の上に城を築かなかったのでしょうか。
 一ノ谷での戦いもそうですよね。なんで狭い平地(神戸)に立てこもるかなあ。

古代山城サミット:屋嶋城跡見学会やシンポ 23と24日、プレサミット /香川− 毎日jp(毎日新聞)ソースURL: http://mainichi.jp/feature/news/20121110ddlk37040675000c.html

 古代山城跡がある全国の自治体が集まり、遺跡の保存や活用策について話し合う「古代山城サミット」が来年10月、高松市で開かれる。サミットの機運を盛り上げようと、高松市教委は今月23、24両日、同市屋島地区にある屋嶋城(やしまのき)跡の現地見学会やシンポジウムなどを内容とする「古代山城プレサミット」(毎日新聞高松支局など後援)を開く。
 古代山城は唐や新羅の侵攻を防ぐため、7世紀の大和政権時代に、九州や瀬戸内海沿岸に相次いで築かれた防衛施設で、西日本に約30カ所あるとされる。山城の中には「日本書紀」に記されているものと、そうでないものとがあり、「古代史の謎の一つ」(高松市教委)という。日本書紀によると、屋嶋城は天智天皇が667年に築城したとされ、西日本最大級の規模を誇る。
 プレサミットは両日とも定員先着300人で参加無料。23日の現地見学会は午後1時から、同市屋島東町の源平合戦供養碑前広場で受け付け開始。文化財専門員の案内で、屋嶋城跡の城壁など遺構を巡る。
 24日は同市サンポートのかがわ国際会議場で午後1時からシンポジウムを開催。人間文化研究機構の石上英一理事が「古代山城築城と古代国家の形成」と題して基調講演した後、「屋嶋城が築かれた時代を探る 大和朝廷と讃岐」をテーマに古代史や考古学の専門家がパネルディスカッションを行う。問い合わせは市埋蔵文化財センター(087・823・2714)。【久保聡】

  • 正倉院のガラスは固まるテンプルで作りました。

 ガラスには、ふきガラスと、鋳物みたいに固めるガラスの二つの製法があります。今はふきガラスがほとんどですが、正倉院のは、たぶん固めるテンプルです。

【特集】ガラスの来た道〜正倉院へのいざない〜 : ニュース : 第64回正倉院展 : 正倉院展 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
ソースURL: http://www.yomiuri.co.jp/shosoin/2012/news/20121110-OYT8T00514.htm?from=yolsp

王たちが愛した輝き
 第64回正倉院展で公開中のガラス杯など、正倉院の名宝の数々は、中国や朝鮮半島にも類似品がみられ、日本にもたらされるまでの道のりをたどる手がかりとなっている。
 かつて長安の都が置かれ、シルクロードの東の起点だった中国・西安市。同市近郊で威容を誇る法門寺は、唐の歴代皇帝が信奉した。25年前に敷地内で唐代の地下宮殿が発掘され、9世紀頃の西アジア産のガラス皿などが出土した。正倉院宝物に似た球形の香炉も見つかり、唐と日本の文化交流の深さがうかがえる。
 新羅の王が創建したと伝わる韓国・市近郊の松林寺では、仏塔内から7〜8世紀のガラス製が発見された。ササン朝ペルシャ産の特徴とされる環状文様などが、瑠璃坏のガラス部分とそっくりだった。百済の宮殿跡とされる市の遺跡からは、舎利の入った金製の箱が出土。表面の文様が、瑠璃坏の銀製脚の文様と酷似しており、研究者の間では、瑠璃坏は、ガラス部分だけがペルシャから朝鮮半島に入り、百済で脚が付けられた、との見方が出ている。
 中国や朝鮮半島を経て日本に伝来した正倉院の名宝たち。時の権力や信仰と結びついたその輝きは、今も変わらない。(写真・宇那木健一、文・原田和幸)
(2012年11月10日 読売新聞)

ここは本当にきれいです。紅葉のときならなおさらだろうなぁ。またハワイアンズにも絶対行くぞ!
がんばれ福島

白水阿弥陀堂>錦秋の国宝…復興願いライトアップ いわき (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
ソースURL: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121109-00000092-mai-soci
 東日本大震災に耐えた平安時代後期の国宝「白水(しらみず)阿弥陀(あみだ)堂」(福島県いわき市)で10日、紅葉ライトアップが始まる。震災と原発事故からの復興を願い地元商店主らの実行委員会が初めて企画した。
 9日に試験点灯があり、樹齢400年以上とされる大イチョウ(高さ約30メートル)など浄土庭園内の樹木二十数本と、堂内の国重要文化財阿弥陀如来像などがLED(発光ダイオード)ライトに照らし出された。阿弥陀堂は願成寺(がんじょうじ)にあり、20日まで午後5時半〜8時点灯。問い合わせは実行委(0246・27・1173)。【中尾卓英】

 これは貴重ですね。おもしろすぎます。ひこにゃん見るついでにぜひ行きたいですね。
 阿閉甲斐守・・・センゴクにも出てきた信長包囲網のときに、信長側に寝返った人で、これで一気に信長が浅井、朝倉を滅ぼすことにつながる人ですね。
 信長公記では「阿閉淡路守」で出てくる。同一人物?それとも親子?
 この文書によると、姉川の戦いの恩賞は「信長が滅亡した後」というかなり厳しい条件つき。

浅井長政:姉川合戦語る 貴重な書状公開−−長浜・浅井資料館 /滋賀 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
ソースURL: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121109-00000208-mailo-l25

 戦国時代、北近江を支配した小谷(おだに)城主、浅井長政が、織田信長徳川家康連合軍と戦った姉川合戦(1570年)に触れた書状が、長浜市大依(おおより)町の浅井歴史民俗資料館で特別公開されている。数ある長政の書状の中で、長政自身がこの一大決戦について語る現存唯一の古文書で、同館は「長政にとっていかなる戦いであったかがよく分かる、非常に価値の高い史料」という。
 縦11・5センチ、横36センチの「浅井長政書状 阿閉甲斐守(あつじかいのかみ)宛」(1571=元亀2=年5月5日付)。同館によると、長政の直筆署名(花押(かおう))があり、合戦の翌年、家臣の阿閉甲斐守の息子ら一族が討ち死にしたことを慰め、信長との戦いが終息したあかつきには恩賞を与え、阿閉家の跡目も取り立てることが記されている。
 長政の家臣への感状(感謝状)は他に2点知られているが、いずれも原本は行方不明。また、長政は姉川合戦を「辰鼻表(たつがはなおもて)合戦」と呼び、当時、浅井家では「辰鼻表合戦」「野村合戦」と呼んでいた。「姉川合戦」は江戸時代からの呼称という。同文書は東浅井郡内の旧家に伝来していたが、このほど長浜市が購入した。
 公開は12月2日まで。同館(0749・74・0101)は会期中無休。【桑田潔

堀尾吉晴(1543〜1611)とは、またマニアックな武将がでてきましたね。
尾張出身で、秀吉に仕え、明智光秀との山崎との戦いでは天王山をゲットしました。
天正13年(1585)には、のちに石田三成がはいる近江の佐和山4万石、5年後には、小田原の陣後に江戸へ移った家康の代わりに浜松12万石の城主となりました。
秀吉政権下は五大老(家康、前田利家毛利輝元小早川隆景=死後に上杉景勝宇喜多秀家)というのはありました。その下には、三成をはじめとする五奉行がいたことは有名です。
じつは、その大老と奉行の間に、三中老というのがあって、堀尾はその一人となりました。中老とはまたマニアック。
関ヶ原では東軍について、戦後、息子が出雲と隠岐24万石を与えられました。松江城のできる直前になくなりました。
以上、受験にはでない戦国武将でした。

記事で気になるのは

徳川家康の後の浜松城主で、武田信玄に脅かされた地だけに軍事力を周囲に示す狙いがあったとみられる

武田信玄が仮想敵だってぇぇぇ?????時代が10万年くらい違っております。
浜松の家康が信玄と戦った三方原の戦い=1572年
堀尾くんが浜松城に入った=1590年
もう武田家とっくに滅んでわいな。。。

朝日新聞デジタル:石垣や堀切を確認/浜松・二俣城跡-マイタウン静岡
ソースURL: http://mytown.asahi.com/shizuoka/news.php?k_id=23000001211120003

2012年11月11日
高さ約2メートルの石垣の跡が見つかった=浜松市天竜区二俣町二俣、市提供
 浜松市天竜区二俣町二俣の二俣城跡で、本丸をめぐる石垣や堀切が確認できたと市が発表した。安土桃山時代の1590〜1600年ごろに西遠江を治めた堀尾吉晴が「権威の象徴」として設けたらしい。
 市文化財課によると、確認できた石垣は高さ約2メートル、延長約15メートル。本丸の外側を土塁で囲み、その周りを大小の石を組み合わせた石垣で覆ったらしい。
 堀切跡は二の丸の南側で見つかった。深さ約4メートル、幅約11メートル。敵の侵入を防ぐとともに通路としても使われたらしい。出土した土器や文献から工事時期がはっきりした。
 石垣も堀切も当時の最新式。堀尾は徳川家康の後の浜松城主で、武田信玄に脅かされた地だけに軍事力を周囲に示す狙いがあったとみられるという。
(略)

  • さらにマニアックな永山城

 「幻の!」「新事実!」とか言われても、もうマニアックすぎて、いったいどこのだれなんだか。
 大分県です。おもしろ古代研究家の中には「日田に邪馬台国あり」と言っているような記憶が・・・

日田・永山城跡:幻の永山城絵図発見 新事実「裏門あった」 県史跡指定に弾み /大分− 毎日jp(毎日新聞)
ソースURL: http://mainichi.jp/feature/news/20121110ddlk44040591000c.html

 日田市教委は発掘調査をしている「永山城跡」について、天領になる前の大名領だった江戸初期(17世紀初め)に描かれた2種類の古絵図を三重県亀山市歴史博物館で発見した。永山城跡は史料がほとんどなく、城下町を起源とする重要伝統的建造物群保存地区・豆田町の歴史を通じて最古の絵図。城郭の規模だけでなく「裏門」があった新事実も明らかになり、来春申請する県史跡指定に向けて弾みがつきそうだ。
(略)
 徳川家大名の小川氏が丸山城を築造し、その後、移封された譜代大名の石川忠総(6万石)が永山城と改名、1639年に廃城となった。絵図はその治世下(1616年から17年間)に描かれたとみられる。石川家は転封を繰り返し、伊勢亀山藩明治維新を迎えた。
(略)

 伊達政宗の伊達は、福島県北部の伊達郡から来ています。なのに、政宗のうまれは山形・米沢、そして居城は宮城・仙台。なんでなんでしょうね。伊達郡は、平泉VS鎌倉の戦いで、最大の激戦地(阿津賀志山の戦い)となったように防御しやすいし、交通の要衝です。
 恵美嘉樹は、その頃、阿武隈川が大氾濫を起こして、一帯に大きな被害があったからではと、(全然根拠なく)想像しています。ああいう巨大な河川は時折とんでもないことを起こすはずです。
 ただ、記事の

 関ケ原の戦い(1600年)以後は合戦用の城は不用になったことから、それ以前に造られたと推測される。

 ここは同意できないですね。東北はまだまだかなり不穏で、一発即発の時期でしたよ。とくに伊達と上杉。それにここは関ヶ原のころは上杉藩で、徳川と伊達に挟撃されようとしていたのだから、むしろ積極的に改修したでしょう。

独自の石積み跡発見 戦国期築く桑折西山城跡 (福島民報) - Yahoo!ニュースソースURL: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121110-00000026-fminpo-l07
独自の石積み跡発見 戦国期築く桑折西山城跡
福島民報 11月10日(土)11時23分配信
 福島県桑折町の国指定史跡「桑折西山城跡」で9日までに、戦国時代末期の1600年ごろまでに築かれたとみられる石積みの跡が新たに見つかった。同町教委によると、当時、西日本を中心に発達していた石垣とは石の形状などが異なっており、地元独自の技法が用いられたとみられる。 
 町教委が9月から実施している調査で発見された。本丸西側の西館の出入り口に当たる部分で、幅2メートルほどの通路の両脇に築かれていたという。 
 町教委によると、西山城は戦国武将伊達政宗の曽祖父の伊達氏14代稙宗(たねむね)が1532年ごろに築城した。石積みは本丸完成後に改修工事で組まれたが、何らかの理由で石が崩された。鉄砲戦で優位性を保つことと、敵への威圧を目的に築かれたとみられる。関ケ原の戦い(1600年)以後は合戦用の城は不用になったことから、それ以前に造られたと推測される。 
(略)

  • 【江戸時代】
  • そしてまた伊達領

 このとおり伊達藩は福島ではなく北へと広がっていたのです。

古絵図:県北沿岸部の絵図、古物収集家・工藤さん確認 江戸中期作か、浜や島の名克明に−−栗原 /宮城 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
ソースURL: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121110-00000031-mailo-l04

 現在の県北沿岸部に当たる仙台領本吉郡を描いた江戸中期作とみられる古絵図が、栗原市内で確認された。同市の古物収集家、工藤恭二さん(63)が同市の旧家から譲り受けたもので、沿岸の浜や島の名前を克明に記しているのが特徴。
 サイズは縦2・2メートル、横1・56メートル。顔料で彩色されている。図上に「本吉郡」と記され岩手県陸前高田市南端部から石巻市北上町、登米市津山町までを図示。浜や島は気仙沼大島沖の「大前見島」や北上町の「白浜」など現在に続く名前がずらり。村名は「気仙沼村」、「津谷村」(気仙沼市本吉町)、「柳津村」(登米市津山町)などが見える。
 気仙沼村の大肝煎(おおきもいり)の熊谷太兵衛と本吉郡北部の奉行、鮎貝志摩(宗景)の名があることから、工藤さんは製作時期は江戸中期の18世紀前半とみている。また絵図の右肩部にある「赤丸印は鉄砲場の所」などの記述が地図用途の解明のヒントになるとしている。ただ赤丸は図では確認できない。工藤さんは「何に使われた絵図なのか解き明かしたい」と話している。【小原博人】
11月10日朝刊

  • 【中国】
  • 新文化革命で文化を守りますBY中国

 ぜひ守っていただきたいですが、文革で失った文化財、歴史を取り戻すのは難しいですよ。それで中国人が日本詣でをしているのです(中国古来の文化財、特に古文書は、飛鳥時代以来、こつこつ購入して、大切に保存してきた日本にしかなくなっているのが現状)
 まあ、がんばってください。

中国文化次官「中国は世界遺跡の保護に努める」 - 中国国際放送局
ソースURL: http://japanese.cri.cn/881/2012/11/12/145s200849.htm

2012-11-12 15:08:10
 中国文化省の趙少華次官は11日に、中国共産党第18回全国代表大会(十八大)のメディアセンターで開かれた記者会見で、中国各地で世界遺産リストへの登録申請が行われていることについて、「悪いことではない。世界遺産の伝承・保護を通じて人類と社会及び人民のために貢献すべきだ」と述べ、中国の遺産保護に力を入れていく姿勢を示しました。
 また趙少華次官は「これまでの結果が証明しているように世界遺産への申請は文化遺産保護にとって重要なチャンスであり、遺産の保護レベルの向上にも著しい効果がある」と述べ、今後も関連法規や保障制度などの健全化を進め、利用の質とレベルの向上に努めていくことを明らかにしました。(万、吉野)

  • 漢字の原点

あっ、見忘れた
まあ、どうせすぐに再放送を10回くらいやるでしょう。

ワイド視聴室:NHKスペシャル 中国文明の謎(第2集)− 毎日jp(毎日新聞)
ソースURL: http://mainichi.jp/enta/news/20121110dde012200039000c.html

 ◆NHKスペシャル 中国文明の謎(第2集) NHK=11日午後9:00
 ◇人々をつないだ漢字の力 漢字が生まれ、中国を一つにまとめ上げる原動力となった理由を探る。
 殷が最初の王朝、夏を攻め滅ぼしたことを示す遺跡が、2010年に河南省で初めて見つかった。発掘現場からは、殷の兵士に処刑された夏の人々の遺体が出土。殷は紀元前1600年ごろに夏を滅ぼした。
 殷墟(いんきょ)から見つかった最古の漢字「甲骨文字」を見ると「雨」や「衆」など今の字と似た形の文字がたくさん刻まれていて驚く。3000年間、文法も大きく変わっていないという。
 殷の王は、知りたいことを亀の甲羅に書き込み、熱した青銅の棒を当てて、そこに入ったひび割れから神の意思を読み解いたという。神にあてた甲骨文字は神聖なものとして人目に触れないように穴に隠されたが、やがて属国に流出。次の周王朝時代に漢字の用途は大きく変化する。
 ナビゲーターの中井貴一が謎解きする形で、番組はミステリアスに進む。農家の人が洞穴で周王朝の青銅器を見つけ、素手でいじりながら、みんなでよっこいしょと運び出す映像に、中国のたくましさ、奥深さを感じてしまう。【土屋渓】
 東京・上野の東京国立博物館で「中国 王朝の至宝」展が12月24日まで開催中。

  • 【グランドフィナーレ】
  • なんかすごそうな豪族アニメ、見たい!

 見たいですね。なんとも日本昔ばなしを彷彿とさせる、味のある絵柄。youtubeでお願いします!
 「活動弁士」ってのもまたすごい。

豪族の活躍、アニメで紹介 - 中国新聞
ソースURL: http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201211100027.html
 中世の豪族益田氏の活躍を描いたアニメーションを、東京在住の活動弁士坂本頼光さん(33)が完成させた。益田市島根県芸術文化センターグラントワで11日午後6時からあるイベントで初めて披露する。
 益田氏20代当主の肖像画「益田元祥(もとよし)像」を所蔵する同センター内の県立石見美術館が企画。同館の絵画を独特の話術で紹介するイベントに2010年から参加する坂本さんに制作を依頼した。益田氏の山城跡や居館跡を訪問してイメージを膨らませた坂本さんが作画し、約15分の作品「ザ・ヒストリー・オブ益田氏」を仕上げた。

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