歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

金沢城で信長の娘の屋敷の跡に作られた庭園見つかる

 金沢城といえば、兼六園が有名ですが、城を挟んで反対側の一角にも、こぢんまりとした庭園がありました。
 そこが「玉泉院丸」。色紙を貼ったように微妙に色の異なる石を技巧的に短冊積みにした石垣から、滝が流れて池にそそぐという趣だったんですね。

さすが百万石、風流ですね〜。

ちょっと待って! 百万石の礎(利家の頃は100万いってません)は「槍の又左右衛門」と恐れられた超武闘派の前田利家ですよね。武で作った百万石なのに、金沢というと「風流〜風雅〜」とイメージします。
それはなんででしょう?
その答えはこの庭園に隠されているのかもしれません。
玉泉院(ぎょくせんいん)というのは、女性の名前で、なんと織田信長の娘(4女)です。
彼女(1574−1623)は、名前を永といって、利家とまつの長男であり加賀藩2代目の利長に嫁ぎ、この場所を屋敷としたのです。

ところが、彼女は子を産むことがありませんでした。
大河ドラマを覚えているかもしれませんが、結局、利家とまつの子孫は大名として続かなかったのです。3代目は利家の息子ですが、まつの子ではなく愛人の子です。つまり異母弟。

天下布武の血をつなげる信長の娘・玉泉院の屋敷地をつぶして、雅で平和的な庭園を作ったのは、この3代目の利常さんです。

3代利常さん個人は、江戸時代に入ってからは、伊達政宗と並ぶほど強烈な「野生児」として有名だったのですが、個人のキャラクターと政治家としては別でした。
=現在、金沢の野生児というとこの人(金沢出身らしい)
利常さんは、前田家をつぶそうと画策した幕府の追求をかわしつづけた優秀な政治家でもありましたから、こうして「脱信長」「脱戦国」という施政方針を庭を使って表明したのではないでしょうか。

なお、現地説明会は、10日の午後1時半からです。

利家とまつ〈上〉 (新潮文庫)

利家とまつ〈上〉 (新潮文庫)

藩政期の水流、克明に 金沢城玉泉院丸跡で確認
上流部分の構造が確認され、滝の流水経路の全体像(青いテープ部分)が明らかになった=金沢城玉泉院丸跡

富山新聞
http://www.toyama.hokkoku.co.jp/subpage/H20121109104.htm

 金沢城玉泉院(ぎょくせんいん)丸跡で、かつて庭園内を流れていたとみられる滝の流 水経路が確認された。8日、現地で開かれた報道向け説明会で県金沢城調査研究所が発表 した。これまで構造が分からなかった上流部分で左右に曲がりくねった導水路が見つかり 、日本庭園を形成する上で欠かせない水の流れの全容が判明し、往時の景観を復元する上 で貴重なデータとなる。
 玉泉院丸の庭園跡では、これまでに泉水(大きな池)や、泉水につながる「段落ち」形 式の滝、庭石、出島などが確認された。段落ちの滝よりさらに高い場所に位置する「色紙 短冊積み石垣」の下では昨年度、落水でえぐられた滝つぼと地下水路が見つかった。

 今年度の調査では段落ち形式の滝と地下水路口の間にある斜面で導水路の痕跡を発見し た。これによって流水ルートがほぼ明らかになった。

 確認された導水路は13代藩主前田斉泰(なりやす)の命で滝が整備された際の遺構と みられる。ただ、庭園は歴代藩主の意向で度々手が加えられており、担当者は「庭園がど のような変遷をたどってきたかは謎が多く、今後の調査課題だ」と話した。

 色紙短冊積み石垣の下に位置する滝つぼには、3方向から水が流入していたことが分か った。同石垣上部に設置されたV字型石樋(いしどい)からの落水、松坂の側溝に加え、 水路の勾配を分析した結果、数寄屋門側の水路からも導水していた可能性が大きい。

 同石垣の西側に連なる石垣では、基礎となる根石を確認した。これにより、石垣の高さ は約4メートルだったことが分かった。

(略)

  • 山口・九州にかけての大名大内氏の庭園

庭園についてはこんなニュースもありました。
ここも現地説明会は10日、午前10時から正午までだそうです。

大内氏館跡で説明会 山口 - 中国新聞
ソースURL: http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201211070029.html

 全国的にも珍しい掘り込み式の枯れ山水とみられる庭園跡が見つかった山口市大殿大路の国史跡・大内氏館跡で6日、市教委が報道関係者を対象に現地説明会を開いた。
 市教委文化財保護課の丸尾弘介主事(31)らが、滝や流れを表現した護岸石や平玉石などの構図を解説。導水路や排水路が見つかっておらず、土層に水が堆積した痕跡がないことから、地面を掘り込んで造った枯れ山水庭園とみられることを説明した。
 同館跡で発掘された庭園は、池泉(ちせん)庭園などに続いて四つ目。大内氏遺跡保存対策協議会専門委員の田中哲雄元東北芸術工科大教授は「地面を深く掘り込み、そこに石を並べた枯れ山水庭園は、全国的にも珍しい。大内氏の庭園文化への造詣の深さを示すものと考えられる」としている。
(略)

枯れ山水庭園とみられる庭園跡の構造を説明する丸尾主事

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