歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

1300年前の東北に「日本」の国境線があった

 日本列島が今の「日本」となったのは、北海道・沖縄を含めれば江戸時代になってから。しかし、もっと古い時代に時計を戻せば、奈良時代の日本の国境線はまだ宮城県中部(仙台よりちょっとだけ北)にあったのです。

 つまり、それより北の岩手や青森は日本ではなく「蝦夷たちのクニ」(国家ではありませんでした)。

 かつてはヤマト民族がエミシ民族を征服していったと考えられてきたのですが、そうではありませんでした。(少なくとも北部東北と南部東北に人類学的な差はありません)

 ややこしいのですが、ヤマトはエミシを異民族と考えていましたが、エミシはヤマトのことを同じ文化・民族と考えていたのです。うーん、ややこしい。

 奈良時代をさらにさかのぼること200年。岩手も宮城北部も前方後円墳の文化というヤマトと同じような価値観を持つ人々が住んでいたのです。

 で、勝手にヤマトが内部抗争(雄略天皇死後の大王家のゴタゴタ)みたいなことをはじめて、北とのかかわりが没交渉になってしまいます。
 
 それで数百年ぶりにまたヤマトの人たちが東北にやってきたのですが、昔、仲間だったことはすっかり忘れて、「エミシは異民族=中華思想では無条件で討伐、征服されるべき相手」となってしまったのです。

 ふつうキレますよね。

 東北の民は、縄文以来の弓文化でもありますから、戦闘すればめちゃめちゃ強いのです。
 一方、来月刊行のひととき12月号の「アキツシマの夢」でもちょっと書いているのですが、ヤマトの主戦力は、大陸と半島の唐と新羅を仮想敵国に編成された、広い場所で大会戦するための重装歩兵です。
 
photo by google
 東北の山では兵を大規模に展開できないので、ゲリラ戦になります。そうすると、一対一ではエミシは圧倒的に強いわけです。

 そんなわけで、防戦一方になったヤマト側が築いた防御拠点が今回発掘されている権現山遺跡や隣接する三輪田遺跡などなのです。

 グーグルマップを見ると分かるのですが、ヤマトは「背水の陣」(南が江合川)を敷いているんですよね。なぜでしょう?自信なのか、文字通り背水の陣だったのか。

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河北新報

 大崎・権現山遺跡 材木塀跡新たに410メートル

奥から手前に延びる材木塀跡を指し示す調査員。立てた木材の一部が残る
 宮城県大崎市教委は25日、古代の官衙(かんが)的施設とみられる同市古川荒谷の権現山遺跡の発掘調査結果を発表した。外敵防御用らしき材木塀跡410メートルが新たに見つかり、兵士の「勤務表」を記した可能性のある木簡も出土した。
 材木塀跡は8世紀初めごろの遺構。掘った溝に木材を立てて並べ、埋め戻して築かれている。湿地に残る塀跡は太さ約20センチの木材が接して並び、最大で4列だが「基本は1列で、改修や補修を繰り返した」(市教委)とみられる。
 塀跡の外側に区画溝跡も見つかった。すでに見つかった分と合わせ材木塀跡など外郭施設は、総延長1.2キロとなる。
 湿地からは出土した木簡は表に「従六年 十二月十一日」、裏に「矢田マ黒□」ら男4人の名前が書かれていた。「従」は「〜から」の意味で、「矢田マ(やたべ)」姓は安積郡(現郡山市)での居住が知られる。
 権現山遺跡に近接する三輪田遺跡では1998年、相模国の軍団の駐屯を示す木簡が出土。市教委は今回の木簡も「兵士の勤務表、出勤簿の可能性もある」とみる。「六年」の年号は和銅、養老、天平のいずれかとみられ、東北で出土した年号が明らかな木簡で最古級とみられる。
 市教委文化財課は「古代の大崎や軍団兵士を解明する手掛かりとして重要だ」と話す。現地説明会は27日午前10時から。

2012年10月26日金曜日

多賀城 焼けた瓦の謎

多賀城 焼けた瓦の謎

イラストが多くて読みやすいですよ。東北で起きた大戦争の概略を知るのに非常によいです。書き手もちゃんとしています。