歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

アイヌその2 17世紀にアイヌを襲った山の崩壊が引き起こした津波の痕発見

前回は、アイヌ人は縄文人と同じように狩猟採集の生活をしているけど、縄文文化の後継者ではなく、むしろ「生産」よりも「(現代風にいえば)金融」に特化した、非常に国際感覚と経済感覚に秀でた人たちだったと恵美なりの結論を出しました。

で残された問題は、

アイヌ民族単一民族

というベリー・センシティブな問題です。

たちあ枯れ系の政治家が時々「日本は単一民族である」と言っては、「いや、アイヌ民族がいるではないか」と批判をうけたり
しています。琉球人(沖縄)も、江戸時代以前には日本であったことはないので(中国であったこともありません、念のため)民族ともいえそうです。

もちろん、帰化した朝鮮半島系(李忠成とか)やブラジル系(ラモス瑠偉とか)もいるわけですが、近現代分はとりあえず横に置いておきます。

アイヌそのものについては、「アイヌ民族」という一つの人種と考えられてきました。
ところが、アイヌ「民族」はいなかったのです。正確には、さきほどから言っている国際金融サービスに特化したノマドライフ=「アイヌ文化」があり、この文化を享受するノマド民には、大きく二つの民族がいたことが、人骨の人類学によって判明したのです。

ややこしいですか?

現代に置き換えましょう。

国際金融の拠点のシンガポールに国籍がある人は、シンガポール人と呼ばれます。
ところが、同じ会社の同僚であるシンガポール人A君とシンガポール人B君は、見た目が全然違います。
A君は中国系、B君はマレー系だったからです。

そしてアイヌ人は、1万年前から北海道にいた縄文系と、サハリンなどから南下したオホーツク系の、見た目が全く異なる人たちが併存したのです。縄文系は彫りが深く、オホーツク系はのぺっとしているという特徴があり、両者の骨は全然違うのだそうです。どちらが人口的に多いかというと縄文系のようです。

日本列島には、北から、オホーツク系、縄文系、ヤマト系、琉球系(縄文系の亜流と考えられている)と四つの人種からなる島々だったということで、これまで三種族と思われていた日本列島史を書き換えるとはそういうことです。

どんどん日本の多様性が明らかになることは、実はとてもいいことです。
日本はつねに文化をミックスし、変化し続けながら、今の繁栄を築いた国。

江戸時代や縄文時代をパラダイスとして懐かしむくらいなら、知的な娯楽として結構ですが、現実の世界で時間の針を戻して、「あの時代の日本こそ、唯一の美しき日本」などと考えるのは、日本史的には(政治的にどうかは知りません)大間違いなのです。

室蘭民報ニュース2012/10/26

伊達市有珠町にある善光寺地蔵堂周辺で、北海道開拓記念館の添田雄二学芸員(39)らによる発掘調査が行われており、25日までに1640年に発生した駒ケ岳噴火の山体崩壊に伴う津波の痕跡を確認した。津波の事実を伝える古文書の記述を裏付ける地層として注目している。

 アイヌ時代の環境を復元する研究に取り組んでいる添田学芸員は、現在より平均気温が低かった15〜20世紀初頭の「小氷期」の中でも最寒冷期とされる17世紀の環境が、アイヌ民族の生活に与えた影響を調べている。

昨年からは、17世紀の遺跡であることを証明する手がかりとして、複数の古文書に記されている1640年の駒ケ岳噴火に伴う有珠周辺を襲った津波の堆積物に着目。文部科学省の科学研究費助成事業を活用して、調査を行っている。

今回は、津波が「善光寺如来堂の後山を上った」とする史料(『維新前北海道変災年表』)の記述を基に、当時の如来堂があった地蔵堂の周辺で重機を使ったトレンチ調査を実施。その結果、記述を裏付ける堆積物を40年の駒ケ岳噴火の火山灰層の上下で確認した。

このほか、昨年の調査で偶然発見した向有珠町のカムイタプコプ下遺跡でも発掘を実施。同遺跡では、駒ケ岳噴火よりも古い地層からアイヌ民族の住居(チセ)跡や畑跡とともに、津波の痕跡が確認されており、添田学芸員は「寒さや津波という自然災害が、アイヌ民族にどう影響を与えたかを探る手掛かりを見つけたい」と成果に期待している。今年の調査は27日までで、来年度も継続する予定だ。
(菅原啓)

【写真ー17世紀のアイヌ遺跡解明に役立つ津波堆積物を調査する添田学芸員

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