歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

【図解】武田信玄の作った信玄堤(霞堤)の構造がよく分かる。北陸だけど

 戦国武将、武田信玄が甲斐の国で作った信玄堤(霞堤)は、信玄の治世の最大の功績の一つです。
 戦国時代(というか今にいたるまで)の政治家の一番の仕事は、いかに自然災害の被害を減災するかです。合戦や政争は本当の仕事ではありません。

 霞堤(かすみつつみ、かすみてい)は、信玄だけでなく、山形の米沢で上杉家もやっているように、近代以前で大河を人間がコントロールできる唯一の方法です。
 
 現在のように上流から下流まで一直線で土手を通すスーパー堤防は、土木技術的に不可能だったのです、わりと最近まで。

 ただ、霞堤というのは、言葉で言っても、書いてもなかなか伝わりません。ちょうどいい概念図が金沢河川国道事務所が出していたので、記事を取り上げます。(イラストの右が上流です)

(金沢河川国道事務所提供)
 
 記事にある手取川(石川県)というのは、霊峰白山の雪解け水がつくったグランドキャニオンのような渓谷が平野近くまで続き、そこから平野にでたとたんにすぐ海という地理条件なので、大氾濫が起きやすい場所、いわゆる扇状地です。

 へぇと思ったのは、こうしたコントロールが難しい川であるために、スーパー堤防方式ではなく、今でもこの霞堤が現役であるということです。

 グーグルマップで見ると、たしかに川沿いはあまり町がなく、今でも山際や
海岸近い砂丘(とみられる)丘に住宅地が張り付いています。しかし、絵に描いたような扇状地、扇の形をしていますね。


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堤防「霞堤」、土木遺産に 前近代の優れた治水技術


土木遺産に認定された手取川の「霞堤」(写真左側の上流に向かって伸びる堤防)(金沢河川国道事務所提供)

 加賀地方を流れる手取川の堤防「霞堤(かすみてい)」が、土木学会(東京)の選奨土木遺産に認定された。扇状地に築かれた前近代の治水技術を伝える大規模で貴重な建造物として評価された。石川県内では、「甚之助谷砂防堰堤群」(白山市)、「七ヶ用水(大水門と給水口)」(同)に次いで3件目。

 霞堤は、下流から上流に向かって不連続にハの字の切れ目が入った堤防で、洪水時には切れ目から水が脇に分散し、下流への水量を減らすことができる。洪水の被害を抑えようと先人たちが少しずつ建造し、昭和初期の頃までに現在の状態になったとされる。現在は、能美、白山、川北の3市町にかけて7か所が残っている。

 手取川は日本を代表する急流河川で、かつては多くの命や財産が失われた歴史を持つ。死者、行方不明者100人超を出した1934年の大水害でも、霞堤が被害を軽減したとされる。

(2012年10月10日 読売新聞)

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