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歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

過去の震災に学ぶ人、歴史に学ばず碑をけがす人

奈良時代 震災・環境

「歴史とは、学ぶものであって、利用するものではない」なんて言葉は、日本でも中国でも韓国でも「ネトウヨ」と呼ばれるたぐいの人たちには通じないのでしょうね。

大震災を経験して、過去の教訓を学ぶことで、人の命を守れると分かったはずなのに。
1年たらずで、日中韓はなにをやっているんでしょうかね。

こういう風に学びたいものです。

河北新報10月9日
http://www.kahoku.co.jp/news/2012/10/20121009t15028.htm
考古学で知る震災の歴史 地底の森ミュージアムで企画展

 かつて仙台を襲った震災の爪痕や、震災後の先人の営みを紹介する企画展「それでも生きる! 考古学からみる災害のあと」が12日から、仙台市太白区の市富沢遺跡保存館「地底の森ミュージアム」で開かれる。弥生時代津波跡や復興への取り組みを伝える貴重な資料を展示する。

先人が乗り越えてきた震災について、多くの被災者に知ってもらおうと同館が企画。遺物やパネル、模型など約70点で震災をたどる。
 弥生時代のコーナーでは若林区荒井の「沓形(くつかた)遺跡」から「土層転写」(剥ぎ取り)という手法で保存された地層を紹介する。地層には津波で海底から運ばれたとされる砂が水田の層の上に5センチほど積もる。同館学芸員の中谷可奈さん(31)は「少なくとも300年は耕作放棄された可能性がある」と指摘する。
 平安時代貞観地震(869年)関連では、倒壊した建物の修復のため新羅系の瓦を焼いた「与兵衛沼窯跡」(青葉区新堤)の模型も並べる。当時の中央政府が高度な技術を導入し、復興へ注力したことがうかがえる。
 液状化現象の痕跡がある王ノ壇遺跡(太白区大野田)や、被災し廃棄されたとみられる陸奥国分寺跡(若林区白萩町)の瓦などもパネルなどで解説する。
 中谷さんは「タイトルの『あと』には『跡』と『後』、二つの意味を込めた」と説明。「地域の先人も天災に苦しみ、生き抜いてきた。その証しをたどれば、東日本大震災に直面する私たちも未来へ歩む力を得られるはず」と期待する。

 
他方、間違った歴史の学び方


google picaseより=

仲麻呂記念碑の汚れ確認 中国西安尖閣で反発か
2012.10.7産経新聞

 

【北京=川越一】奈良時代の遣唐留学生、阿倍仲麻呂を記念して中国陝西省西安市内の公園に設置された碑が汚された−と中国のインターネット上に書き込まれた問題で、中国の国際情報紙、環球時報(電子版)は7日までに、高さ約6メートルの石碑に赤と黒の塗料がかけられ、「拆(取り壊せ)」という文字が書かれていたことを公園管理者が確認したと伝えた。
 石碑は同市と奈良市の友好都市提携を記念して1979年に建立された。仲麻呂の「望郷歌」と、仲麻呂死去の誤報を聞いて李白が歌った七言絶句「哭晁卿衡」が刻まれ、日中友好の証として知られた。中国のネット上では、日本政府による沖縄県尖閣諸島の国有化に反発する行動として支持が集まっている。

ほんま、どうしようもないです

阿倍仲麻呂(698〜770)とは、奈良時代に遣唐留学生として入唐し、その高い才能から唐の玄宗皇帝に秘書監として重用されました。
優秀な人は外国人であっても、平等に登用する。唐というのは、日本でずっと尊敬された国であり文化なわけですが、こういう点でもまさしく大国としての度量が大きかったわけです。

朝衡と称した仲麻呂さんは、当時、唐の図版に入ったばかりの安南都護(ベトナム長官)にまで任命されています。外国人(日本人)が外国の長官になるなるのですから、このときの国家というものが、今の感覚と違うことが分かります。

これだけ活躍しても、仲麻呂さんは故郷が恋しくて、何度も日本へ帰ろうとしたのですが、そのたびに失敗し、結局、唐で死んだという悲劇の人です。

ただ、悲劇というのは、どうなのでしょうか。
今の感覚だと、当時の日本と唐では、文化や生活水準が冥王星と地球くらいの差があります。なぜ、それほどしてまで帰りたがったのでしょうか?
現代人なら、アメリカで活躍したら、そのまま骨をうずめるというのも普通です。それとも、海外で現役時代に活躍した有名な日本人たちも老後はこっそり日本へかえってきているものなのでしょうか。

阿倍仲麻呂伝研究―手沢補訂本

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