古九谷は、新有田焼きなのか?
九谷焼は、パステル調の派手な色合いが特徴の石川県加賀地方の伝統陶器。
前田家がはじめたとされていますが、江戸時代前期の古九谷と呼ばれる古いものがまずあって、それがなぜか途絶えて、江戸時代後期になって、また焼きはじめたのが再興九谷となります。
当然、古九谷のほうが価値が高いのですが、これが焼いていた時期も短く、謎に満ちた焼き物。
現在の歴史・考古学界では、
九谷焼は、前田家が作ったものか。
それとも、秀吉の朝鮮出兵で強制移住させられた朝鮮の工人たちの佐賀の有田の伊万里焼を真似たものか。
という論争があります。
で、どちらが有利かというと、後者なのですが、加賀百万石としては、プライドが許しません。そんなわけで(なのか分かりませんが)古九谷のオリジンを探すべく、ここ数年、発掘調査が続いているようです。
なかなか古九谷の窯が見つからないみたいですね。
わたくし恵美としては、
この色合いのセンスからして、
中国→朝鮮半島→佐賀・有田→加賀藩・九谷焼←ポルトガルなど南蛮文化
という風に、西と東の折衷じゃないのかなあと思っています。
石川の地方新聞「北国新聞」(10月4日)です。
http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20121004102.htm
古九谷と同時期の石垣 加賀の国史跡窯跡、周囲に工房か
加賀市教委は3日までに、同市山中温泉九谷町の国史跡九谷磁器窯跡の発掘調査で、「 古九谷」と同時期の江戸前期に作られたとみられる石垣を確認した。市教委は「石垣の付 近には作業場があるはずで、一帯にはこれまで未発見の工房跡がある可能性が強まった」 としている。今後の調査で工房の全容が明らかになれば、古九谷の産地論争に一石を投じ ることになりそうだ。 石垣は、九谷焼発祥に関わる九谷第1、2号窯の南西側で確認された。石垣に沿って上 絵付けの顔料となる「朱石(しゅせき)(赤鉄鉱石)」の地層も見つかった。堆積の状態 から窯が廃止された後の18世紀ごろの埋め立て地とみられる。市教委は「朱石が堆積し ているのは、造成のために近くの工房の土を使ったため」と推測。当時の作業過程を解明 する上で貴重な資料になるという。
また、江戸後期に操業した「再興九谷」の吉田屋窯跡の北西で、新たに柱穴6カ所と遺 構を確認した。県道建設に伴う1999(平成11)年の調査で出てきた建物跡につなが る遺構で、これまでに発見したものと合わせ、面積約60平方メートルの建物だった可能 性がある。一つの建物の中で陶石の精製や磁器の成形、乾燥など作業を分けて行っていた と考えられるという。九谷焼 1655(明暦元)年ごろ、大聖寺藩の九谷村(現在の九谷町)に開かれた窯 で焼かれた色絵磁器が始まりとされ、この窯で古九谷が焼かれたとの見方が根強い。約7 0年後に突然、窯が廃止された。再興九谷と呼ばれる吉田屋窯は1824(文政7)年に 九谷村に開かれた後、山代に移った。古九谷は九州の伊万里・有田で生産されたとの説も あり、産地論争は決着していない。
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