読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

吉野ヶ里には徐福が眠る? 吉野ヶ里遺跡の調査終了

日本で一、二を争う遺跡、佐賀県吉野ヶ里遺跡の発掘調査が今月で終了しました。
「まだやっていたんだ」と「もうやめちゃんうだ」と二重でびっくりなニュースです。

吉野ケ里の発掘調査終わる 26年、邪馬台国説で沸く(中国新聞2012/09/28)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201209290171.html

 弥生時代の大規模な集落で知られる佐賀県の吉野ケ里遺跡で、県教育委員会が1986年以来、四半世紀にわたって続けてきた発掘調査が今月、終了した。同遺跡の発掘で熱を帯びた邪馬台国論争は、いまだ決着していない。今後は約2万点に上る出土品を分類して年代測定などを実施し、2014年に調査報告書をまとめる。
 吉野ケ里遺跡では弥生時代前期から後期の集落跡が見つかり、ムラからクニへと発展する様子が確認された。

 前期(紀元前5〜前3世紀)は、青銅器を鋳造する道具の断片が出土。中期(紀元前2世紀〜前1世紀)では、有力者を葬る巨大墳丘墓や約3千基のから頭部を切り取られた人骨など戦闘の犠牲者とみられる被葬者が見つかり、弥生時代の戦乱を裏付けた。
 後期(1〜3世紀)は、周囲2・5キロにおよぶ国内最大規模の環壕内に、祖霊を祭る大型建物などが立ち並ぶ区域「北」と、物見やぐらや首長などの居住区が集まる「南内郭」が確認された。
 後期の発見が、邪馬台国の女王(生年不明〜248年ごろ)の居所に「宮室」「楼観」「城柵」があったという中国の史書「魏志倭人伝」の記述と符合したため、1989年以降、大きな注目を集めた。
(略)

 吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の九州における最大級の拠点の一つです。(最大ではありません)
 有明海を臨む筑紫平野にあり、北の山脈(脊振山地)から続く山並みがおわる台地の端に作られました。
 記事では「1986年以来の調査」となっていますが、1935年頃にすでに佐賀平野最大の遺跡として考古学者らの間では知られていました。
 本格的な発掘は、1953年。
 三桁の数の甕(かめ)の棺が見つかり、大量の人骨が見つかりました。この人骨は、縄文人とはどうも形式が違う。さらに副葬品のなかには漢の鏡などが「大陸っぽいもの」がたくさん見つかったため、
 「ああ、これって、渡来系の弥生人なのね」
ということが分かった、考古学においてはとても重要な遺跡でした。

 で、1986年にここに工業団地を造ろうという話になり、当然、考古学者たちは大反発します。
 でも、時代はバブルですから、開発のほうが優先です。「学史的に重要である」なんて言っても、官僚たちは相手にしません。

 そこで、あるアイデアマンが、この遺跡を邪馬台国と結びつけて、メディアに流したのです。

 吉野ヶ里には、『魏志倭人伝』が記す「宮室」「楼観」「城柵」があるぞ!と。

学問上重要<工業団地
邪馬台国>工業団地
パラダイム変換に成功しました。

結果、世間の注目を浴びて、遺跡は残ったのです。パチパチ

とはなりませんで、実は現在の吉野ヶ里遺跡の復元は、「遺跡を大河ドラマ化した」「全く根拠なし」「映画のセットか」と散々な評判です。

でも、最初に「邪馬台国」と言ってしまった手前、「あったらいいな、こんな邪馬台国風」に派手に復元されても、文句言えないような空気もあるようですね。



ところが、恵美嘉樹が注目しているのは、邪馬台国がここにあったかどうかではありません。

「楼閣」などが作られ、城塞都市のようになった最盛期は、弥生時代後期後半、つまり邪馬台国の頃です。
しかし、この楼閣のエリアの真北にある謎のお墓があるのです。南北40M×東西30M、高さは3M以上。これがつくられたのが、最盛期を200年以上さかのぼる弥生時代の中期後半(紀元前1世紀頃)なのです。
楼閣は「卑弥呼」様のための建物というよりも、むしろこのお墓をまつるための専用施設のようにみえるのです。いわば、神社のご神体と拝殿の関係です。

国史大辞典の吉野ヶ里遺跡の項目には、

環濠集落北辺には墳丘墓が営まれ、大規模な祭祀が行われた跡がある。墳丘墓には銅剣・鏡・玉などを副葬する甕棺が八基以上埋葬され、歴代首長の特別の墓域となっている。ほかに八〇〇メートル以上にわたる一般の列埋葬甕棺墓群が存在する。また、弥生時代最古の青銅器工房跡や鋳型類も発見されている。

とあります。

では、誰をまつっているのか?
表題にあるとおり、徐福がキーパーソンです。
徐福は、秦の始皇帝につかえた方士(のちの陰陽師みたいなもん)で、不老不死の薬をもとめて、東シナ海にたくさんの人をつれていったまま帰ってこなかった実在の人です。日本でも和歌山はじめ徐福の渡来地がたくさんあります。有明海周辺もその一つです。日本では伝説ですが、中国では完全な歴史上の人物なんですよね。

でも、徐福は紀元前3世紀です。
ですから、たとえ徐福さんが有明海にきても200年は生きられません。
となると、徐福一行の子孫が中国の先端技術を駆使して九州で有明海の王となり君臨したのではないか。
その後、200年が経過して徐福王一族は同化したか滅んだかしたが
倭国大乱によって、九州や出雲や吉備などの各地の王が誇りと大義(アイデンティティ)の強化をする自分の先祖を神話化。
吉野ヶ里では、それが徐福神話だったのではないか。

との仮説をひそかに持っています。いずれは本にしたいですね。歴史紀行ものならできるかな。証明できるとまでは思ってません笑

この話の参考文献は

邪馬台国時代の東海と近畿

邪馬台国時代の東海と近畿

です。九州がタイトルにないのがポイントです。


歴史 ブログランキングへ