日本人はいつまでさかのぼっていいのか
日本列島で何十万年前の人類の痕跡(石器)が見つかったと、時々報じられる。
あの二〇〇〇年の旧石器捏造発覚以来、少なくなったとはいえ、時々ある。むろん、発掘者による石器を埋め戻す「捏造」ではない。
しかし、恵美は、見つかった石器っぽい石によって数十万年前に列島に人類がいたことがわかったというような発表があってもなかなか納得できないでいる。
考古学というのは、歴史学と同様に文系だ。手法は理系に近いが、根本の思想は文系だ。つまり、研究者の主観が最終的にモノの価値を決めるということだ。
主観的であることが別に悪いのではない。歴史時代については、主観で書かれてきた「歴史」を解き明かすのが目的だから、主観的な考古学はある意味、当然だ。客観的なデータだけではなにも解き明かせない。それは、考古学の存在意味の喪失となる。
感覚的な紋様など言葉に近い文化を持つ縄文時代までが、主観的な研究が主流となりうるボーダーだ、と思っている。
しかし旧石器時代以前となると、まったく話しが違う。
文系の歴史・考古学で踏み込んではならない領域に土足で(主観で)踏み込んだのが、例の捏造事件につながったのではないだろうか。
歴史書や紋様そのほか比較するデータがない以上、だれかが「これは間違いなく石器だ。なぜって? 君はわからんのか?!」と言うことで初めて、自然の石か石器かが決まってしまうからだ。
この前提は、じつは今も変わらない。
なぜなら、はっきりした加工の跡がないことこそが前期・中期旧石器(約4万年前以前)の特徴だからだ。摩耗など明確な跡がない石が割れたのが、人間の力によるか、自然の力によるか、など誰にも証明できない。一方で、否定することもできない。
捏造した藤村氏は、加工した跡のある縄文時代の新石器を「旧石器だ」と言ったからばれたのであり、例えば、なんの加工もしていない鋭利に割れた石を埋めて、それを偉い人が「旧石器」と認定していたら、否定もできないので、いまだ捏造は続いていただろう。
そもそも数十年前にわれわれの祖先が日本列島には存在しえないことは、理系の世界では明白になっている。
すでに、何万年前もの人類について、これまでの見た目で判断する「形質人類学」から、DNA分析をもとにした「分子人類学」にステージを変えている。
これによれば、現在のすべての人類のもとになる、まさしく「原始人」が生まれたのは約二十万年前、そして彼らがアフリカ大陸を離れたのは、およそ六万五千年前であることがわかっている。
つまり、日本列島に六万五千年前よりも前の「人っぽいヒト」がいたとしても、それは現生人類ではないことは明確になっているのだ。
もちろん、クロマニヨン人のように滅んだ類人猿がなぜか日本列島で石器を作っていたかもしれない。だが、そんな可能性を言ったらきりがない。数十万年前に、アフリカを出ようとしなかった人類の一人をUFOがさらって遠い日本列島に運んだということもあるかもしれない。
笑われてしまうだろうが、「前期・中期旧石器人がいた」ということは、こうしたレベルの問題をクリアしないといけないのだ。
今後も、単に地層の古さから石器にみえる石が見つかって「最古の日本人」という発見が続くのだろう。しかし、それが科学的に証明される日はおそらく来ない。火山列島の日本では、土壌から数十万年前の「人類」の骨が見つかる可能性は、洞窟内などをのぞいてほとんどない。
藤村氏による捏造という暴走は、皮肉をたっぷり効かせて言えば、暴走しかけた主観的考古学にブレーキをかけてくれた大偉業だとあらためて思う。
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