歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

壬申の乱の首謀者は持統だった!説

本日は飛鳥時代の戦乱「壬申の乱」を取り上げた本をご紹介します。

壬申の乱 (戦争の日本史)

壬申の乱 (戦争の日本史)

壬申の乱といえば、天智天皇が死去し大海人皇子大友皇子が争い、叛乱をおこした大海人が勝利した戦いです。672年のことでした。古代の中でも一番おおきな戦乱といってよいでしょう。勝利した大海人は即位して天武天皇となりました。

通説によれば、壬申の乱天皇の位を大海人と大友のどちらが継承するのかを争った戦乱といわれています。

しかし本書はこの通説に対して真っ向から反論しています。本書の広告用につけられた帯に次のように大胆に書かれています。

「真の首謀者は鵜野(うの)皇女、後の持統天皇だった!いま明かされる「壬申の乱」の真実」

壬申の乱は大友と大海人とが皇位継承を争ったためにおきたというのが通説です。しかし双方にそうした認識はなく、黒幕である鵜野が戦乱を引き起こしたという大胆な説を展開します。

どういうことか、もう少し詳しく紹介しましょう。

天智が死去して後、当時の皇位継承のルールからすれば、大海人こそが正統な跡継ぎであり、大海人がいずれ即位するというのは当時の誰もが共通に認識していたとします。
天智も大海人即位を望んでおり、大海人を中継ぎとして即位させ、たとえば大友の子の「葛野王を即位させて、それを大友に後見させるよう、大海人に要請した」(22ページ)とします。一方の大海人も「天智の王権を滅ぼして自分の王権を確立したという認識はなかった」(24ページ)のです。
天智が思い描いた大王位継承プランは「大海人を中継ぎとして、葛野王、あるいは大津もしくは草壁といった大海人の子、鵜野をもう一代中継ぎとして草壁、という四通りしかありえなかった」(35ページ)のであり、それは大海人にとっても望ましい選択肢だったというのです。
「もともと大王位継承の資格がない大友を、わざわざ武力で討伐しなければならない必然性は、大海人には希薄だったはず」(34ページ)とします。大海人は皇位継承のために乱を起こす理由がない、そういいたいわけです。

ではだれが何のために内乱をおこしたのでしょうか。
天智と大海人とが共通に思い描いた王位継承プランに都合が悪かったのは鵜野ただ一人。「確実に草壁へと継承させたいという鵜野の思惑としては、まず何としても大友を倒して葛野王を排除する必要性を感じていた」とします。その次の障碍である大津を排除するために、「大友を倒し、同時に草壁の優位性を確立し、さらには大津を危険にさらすための手段として選ばれたのが、武力によって近江朝廷を壊滅させること、そしてその戦乱に自身と草壁をできるだけ安全に参加させる」(35ページ)ことだったというのです。

この学説を唱えるときに「だったはず」という言いかたが頻出します。根拠がないからです。上記のように本書は大胆な仮説を展開しますが、根拠がないと説得力も伴いません。なかなか通説を覆すまでにはいたらないでしょう。

仮説は仮説として検証してみましょう。本書によれば、大海人は戦うつもりなどなかったが、鵜野が影で大海人を操って壬申の乱を引き起こした、ということになるわけですが、はたして鵜野は天武に対してそこまでの影響力はあったのでしょうか。
天武死後、持統は称制といって、即位せずに政務を執り、その後即位します。有力な皇位の有力な継承候補の大津を死に追い込み、飛鳥から藤原京に遷都し、また孫の文武即位に至るまで強力に権力をふるいました。
しかし天武の生前には政策決定に持統が影響を持ったことは日本書紀に記載されてはいますが、もし草壁に皇位継承させるために壬申の乱を引き起こしたのであれば、草壁即位のために天武の生前に大津を排除してもおかしくはありません。壬申の乱を天武とともに起こす影響力を持っていたのですから。やはり天武が主導した政策に同調せざるをえない鵜野の立場があったにちがいありません。

いかがでしょうか。非常にセンセーショナルな学説で、古代史ならではの首謀説。とても魅力的ですが、残念ながら「鵜野首謀説」もなかなか証明するのは難しいようです。

壬申の乱がおこった理由のぜひはともかく、大海人軍(本書によれば鵜野軍とすべきでしょうか)が勝利した理由として多くの豪族が味方したことがあげられます。その背景には豪族の不満があったとします。「唐に協力して再び対新羅戦争に踏み切ろうとしているということは、正当(ママ)な天智後継者であった大海人にとっては、看過しがたい状況」だったのであり、大友に対する反感は他の王族や豪族にとっても同感だったとします。豪族の不満が結集し大海人軍に味方する理由となったのです。
白村江の戦いがおきたのは壬申の乱の9年前。まだ「戦後」ではなく「戦中」であり緊張感のなかにあったというのはなるほどと納得できます。

本書は三十回以上におよぶ現地取材によって、とても立体的に、臨場感あふれる形で乱の経過を書いています。たとえば当時の季節から雨が降っていた可能性が高いとか、あるいはこの道程を一日でいくのはかなりの強行軍だとか。取材することによって厚みをました内容になっています。
実際、著者は本書刊行後、その取材のときに撮りまくった写真を利用して、次のような続編も出しています。

壬申の乱を歩く (歴史の旅)

壬申の乱を歩く (歴史の旅)

写真と地図とが多数使われていて大変おもしろい本です。この本をもって実際大海人があるいた道すじをたどってみたくなります。あわせてぜひ読んで下さい。

〔どうでもいい余談〕ウィキペディアの持統天皇をみたら、芸能人の「神田うの」は持統の「鵜野」にちなんでつけたらしく、幼いころは両親から「ひめ」と呼ばれていたらしい。へぇ。