歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

平安時代も平成時代も公務員は意外と大変なのです

 バブル崩壊後に困窮した地方公務員が武力闘争にはしったのが平将門の乱としてとして、現代の公務員の武装蜂起を促した(ウソ)「目覚めよ公務員!」と題したエントリーを書いたのは、衆院選が迫っているように見えた(麻生首相のときですね)4年前の9月のことです。

麻生首相になって、さっさと解散するのかと思っていたら、ずるずる引っ張った揚げ句に自民惨敗政権交代となったのでした。

そして今は、民主党が、ずるずる引っ張ろうとして、どんどん深みにはまっていくという、歴史の繰り返し。

で、4年前のエントリーを見て、思い出したのが、公務員批判の急先鋒が民主党だったんですよね。今では財務省の広報担当かって感じなのに。

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以下、2008年9月20日のエントリーの再掲です。

近づいてきたらしい衆院選での争点は、どうやら公務員とくに国家公務員をいかに批判するか、のようです。

いわゆる官僚制が日本で登場したのは、飛鳥・奈良時代といっていいのでしょう。別名、律令時代と言われる時代ですが、律令とは法律のことですから、法律があってはじめて法のもとの秩序で動く組織「官僚制」が動き出すのです。

官僚制の特徴は、今も昔もかわらず、法律を都合よく自分たち(政治家や高級官僚など)にあうようにカスタマイズすること。そして、その歪んだ法律を粛々と執行していく下級官僚たちの悲哀もまた変わりません。

古代においては、県知事や政令市長くらいにあたる「国司」は、地方のトップでありながら、「五位」というかろうじて貴族という身分の比較的低い地位でした。

地方ではいばっていても、中央での地位は低いので、こうした国司たちの生活や実像は正史などから無視されていて文献資料ではあまり分かりません。

そうはいっても国と地方の間に挟まれながら、苦しみ、ときに悦楽に走る(だろうなきっと)国司たちの実像を考古学から迫ろうというのが本書です(前置きが長くなりました)

国司の館―古代の地方官人たち

国司の館―古代の地方官人たち

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 服装も大陸的となり、公式の場でネクタイをしめてスーツを着るように官人(役人)たちは「衣服令」という法令で定められた服装を身にまとうようになった

 明治時代にチョンマゲからザンギリ頭に変わったように、奈良時代のはじめに急速な西洋化ならぬ中国化が進み、人々は耳飾りをはずしたのだ

律令の到来した奈良時代は、明治維新の西洋化ならぬ中国化の時代だったのでした。ファッションの変化から時代の変化を感じさせるという、なかなか魅力的な導入です。

「冠位十二階」をつくったとされる聖徳太子も服は中国風にしても、まだ耳飾りはしていたんでしょうね。

でもこの本の面白いのは、後半の平将門(10世紀)についてのお話です。

なぜ将門の乱が起きたというのは、大きな謎ですが、著者は明快な答えを導きます。

それはバブル経済とその崩壊です。

 群党蜂起は反政府運動であるとともに、地域内の開き過ぎた集落間の差を暴力で縮めようとした地域のエネルギーでもあった。そうしたパワーバランスが、十世紀前半、平将門を生んだのである P161

 まさに現代の格差社会。現代は、ニートの若年層VS団塊VS後期高齢者など世代間で開きすぎた差が、暴力的にはならないまでもうっ屈した空気を生んでいるいますが、それが隣村同士でのにらみ合いだったわけです。

天皇の子孫である平氏が関東に下ってきて、どうやって在地の人々のリーダーとなりえたかについてもかなり興味深い視点を提示しています。

 そりゃえらい血筋だから大切にされたんだよ、みたいな論証不能な定説がまかりとおりがちな時代ですが、著者は

答えは土器の中にあった(P169)

とモノからアプローチします。

そして、京都とパイプを持つ元皇族ゆえに、高品位の土器の流通を関東にもたらすことで、経済的に地位をあげていったとときます。

土器の需要(=人口の増という)の背景には、

「空前の土地開発ブームの到来である」P172がありました。

教科書的には「荘園化」と言ってしまい。これまであった農地の持ち主が国営から貴族やお寺の私営になると考えられがちです。

しかし、荘園化は既存の農地よりも、積極的に農地を開拓してあらたな土地を生みだしていった要素が強かったのです。都の貴族も、地元の開拓者も、みんなおいしい思いをしていたのが9世紀でした。バブルです。そしてその崩壊はやってきます、必ず。

無茶な開発は、自然環境を破壊し、農業生産にも様々な影響がでてきました。

10世紀になると、一気に関東の開発バブルは崩壊。新しい土地の村々は生産力を維持できなくなり廃絶。人口減と流民となった人々で治安は悪化していき、あらたな秩序が求められました。

それが平将門だったというわけです。

 じつは平将門の乱とは、九世紀に入って復興をとげた関東地方の大半の集落が、急速に没落していく危機感の中で起こった事件だったのです P178

 九世紀中葉、立錐の余地がないほどに急成長した坂東の集落が十世紀前葉、とたんに没落した P179

タイトルに「平将門」という文字がまったくありませんが、将門論として秀逸の1冊です。

民主党政府に対して溜息が出る、震災資料修復から水没石室古墳の調査まで

合掌集落、水柱に包まれ 白川郷で放水訓練

 紅葉した山を背にした合掌造り集落が、水の“カーテン”に包まれた。かやぶき屋根の伝統家屋を火災から守ろうと、世界文化遺産白川郷岐阜県白川村)で4日朝、毎年恒例の放水訓練があった。
(略)
2012/11/04 10:45 【共同通信

さて
民主党が自分たちがやってきた3年間について、どんな批判も受ける!とアピールしていますので(笑)民主党への溜息をまじえながら、きょうの気になるニュース。
http://minshu2012.jp/

  • 明治時代から記録していた宮城県気仙沼の漁協の資料を神奈川大が修復して返還へ

 何兆円も被災地と関係ないところに予算をばらまいた民主党の「蛮行」の陰で目立ちませんけど、こうした一つ一つの「手作り」の支援こそが、被災したみなさんが「被災者」というひとくくりの代名詞から外れる道に着実につながるのだと思います。

気仙沼の古文書が“帰還”、「漁協の歴史」神大研究所が修復
神奈川新聞社ソースURL: http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1211030016/?__from=mixi
2012年11月3日

 明治期から現在までの漁業史を伝える宮城県気仙沼市の古文書が、東日本大震災津波による汚損と「一時避難」を経て、3日に1年5カ月ぶりの「帰還」を果たす。神奈川大(横浜市神奈川区)の研究所が昨年から修復を主導し、新たな収蔵庫も設計中。4日には住民向けの現地報告会を開き、地域の記憶を生かした復興の形を語り合う。

古文書は、気仙沼湾内にある離島・大島の漁業協同組合が1903(明治36)年の創立当初から欠かさず蓄積してきた。漁協の成立や変遷をたどる、ひとまとまりの資料として一級品といわれる。しかし、震災で2階建ての漁協事務所もろとも津波の直撃を受け、泥や塩分まみれになった。

救出に当たったのが同大の日本常民文化研究所(常民研、佐野賢治所長)だ。前身の財団法人時代の50年代から、水産資料の調査を通じて同漁協と交流があった。
(略)

 江戸時代以前に、墓に埋葬してもらえる人は、それだけでセレブと言っていいのです。
 さらに奈良時代に、最新のおしゃれ思想「仏教」の最新の「天国への逝き方」である火葬を、奈良時代和歌山県の海辺でしているんなんて、ただものではありません。

火葬墓の祭祀跡か 田ノ口遺跡の発掘調査 (紀伊民報
ニュースソースURL: http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=241527

紀伊民報 11月2日(金)16時55分配信


 和歌山県文化財センターは、高速道路南伸工事に伴う白浜町十九渕の田ノ口遺跡の発掘調査で、奈良時代の火葬墓に関係する祭祀(さいし)跡と思われる遺構を発見した。発掘担当者は「中央とつながりのある地位の高い人かその関係者の葬儀に伴うものの可能性がある」と分析している。4日午前10時から現地説明会がある。小雨決行。

(略)

奈良時代(8世紀ごろ)の遺構は柱穴や土坑などがあり、茶色く焼け跡の残る土坑(直径約50センチ)の近くから当時としては貴重な施釉(せゆう)陶器(三彩か二彩)の破片が出土。鮮やかな緑色が残っている。また、蔵骨器によく使われる須恵器の薬壺(やっこ)のふた、墨で文字が書かれた墨書土器、灯明皿として使用されたとみられるタールの付いた土師(はじ)器の坏(つき)なども一緒に出土している。墓本体は見つかっていない。

(略)

  • 水没しているから安心と思っていたらズタボロになった岡山・千足古墳の調査

 弥生時代末から古墳時代にかけて日本列島でも特異な吉備文化を持っていたのが岡山。その代表的な要素に、不思議な円と線を組み合わせたデザイン「直弧文(ちょっこもん)」があります。古墳時代の石室が装飾されているのは珍しいのですが、弥生時代から連なるというのはさらに珍しい。
 そんな貴重な国の指定史跡となっている千足古墳は長年、「石室の中は水没、水漬けになっているから、大丈夫だよん」と長年ほおっておかれて、文化庁様もそのやり方にお墨付きを与えてきたのですが、2009年に開いてみたら、やっぱり駄目になっていました、というお話です。
 で、「保存のため」と称して、高松塚古墳キトラ古墳に続き、国の史跡を破壊、ばらして、一部を取り出すという残念な結果になりました。
 文化庁などは、高松塚からとくになにも学んでいなかったということが証明されたという点で、貴重な遺跡となりました。

千足古墳を発掘調査 岡山市教委 大きさや形状確認へ
YOMIURI ONLINE(読売新聞)ソースURL: http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/okayama/news/20121101-OYT8T01545.htm

 岡山市教委は1日、岡山市北区新庄下の国史跡・造山(つくりやま)古墳群にある前方後円墳千足古墳」(5世紀)の発掘調査を始めた。約4か月かけて、前方部の試掘を行い、古墳の大きさや形状を確かめる。前方部の一部は国史跡の指定外といい、市教委は規模を確定させたうえで、指定範囲を広げるよう、文化庁と協議する方針。
 同古墳は石室内の仕切り石「石障(せきしょう)」に施された浮き彫りの装飾「直弧文(ちょっこもん)」の一部が剥落しているのが見つかり、昨年12月、修復のため石障が搬出された。全長約74メートルの前方後円墳とされるものの、前方部の一部は田畑になっており、形などは分かっていない。
(略)


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  • 兵庫県の古墳から銀の象嵌の刀装具が見つかりました。 

 毎日新聞のWEBには写真ないですね。どんなものでしょう。見たいですね。

  • 関連リンク

 明石市立文化博物館の歴史展「明石の古墳2」

 
寺山古墳:銀象眼の刀装具出土 亀甲文の鳳凰表現、朝鮮半島装飾と酷似
毎日jp(毎日新聞)ソースURL: http://mainichi.jp/feature/news/20121103ddlk28040340000c.html

 明石市は2日、同市魚住町錦が丘にある6世紀中ごろの寺山古墳(直径15メートルの円墳)の出土品の中から、銀象眼で亀甲文の鳳凰(ほうおう)を表現した刀装具が確認されたと発表した。6世紀初めに朝鮮半島で作られた刀装飾に酷似しており、同市は「被葬者は朝鮮半島と交流のあった有力者の可能性がある」とみている。
 10年度の発掘調査で出土した鉄製品を保存処理。エックス線分析計などで調査した結果、銀象眼を施した2点を確認した。亀甲文鳳凰の入った刀装具は高さ、幅とも3・9センチ。厚さ0・1センチ。六角形の亀甲文の中に左向きの鳳凰1羽が表されていた。推計直径から鞘口(さやぐち)装具とみている。

 (略)

 23日〜12月24日に市立文化博物館の歴史展「明石の古墳2」で公開する。【南良靖雄】
毎日新聞 2012年11月03日 (淡路版)



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  • これはニュースの内容よりも、小笠原忠真さんについて後日、ちょっと書きます。

高家寺:五姫の位牌見つかる 「忠真の再建説裏付け」−−明石 /兵庫 (毎日新聞) - Yahoo!ニュースソースURL: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121102-00000178-mailo-l28
毎日新聞 11月2日(金)14時20分配信

 明石市太寺2の高家寺で、本堂を再建したとされる初代明石城主・小笠原忠真の夫人・五姫(いつひめ)(1597〜1643)の位牌と、忠真による修正会関係の文書が見つかった。市文化振興課は「小笠原家と高家寺のつながりや、忠真の再建説を強く裏付ける資料」とみている。
 今年5月、名誉住職の井藤圭湍さん(67)が、北九州市の小笠原家菩提(ぼだい)寺の福聚寺(ふくじゅじ)を訪ね、五姫の位牌がないことを知り、高家寺の本堂を調べたところ、五姫の諱(いみな)を使った位牌(高さ50センチ、幅11センチ)が見つかった。
 表面には「円照院殿華陽宗月大姉」、裏面には没年月日の「寛永廿癸未年十月二日」の文字が彫られていた。金箔(きんぱく)や漆ははげ落ちて黒ずみ、台は虫食い状態だったが、京都の仏具店で修復した。文書は、小倉藩に移った忠真が当時の明石藩主に宛てたもので、祈願内容などが記されている。
(略)
〔神戸版〕
11月2日朝刊
最終更新:11月2日(金)14時20分


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