歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

山形庄内砂丘で見つかった30メートル超の平安時代の巨大津波か

NHKニュースで報じていた「平安時代に起きた巨大津波の痕跡か 山形庄内平野」というニュースに引き込まれました。

 

www3.nhk.or.jp

箇条書きにまとめると

・山形県に高さ30メートルを越える未知の地震津波が起きていた

・西暦1000年代から1100年代前半、平安時代後期(11~12世紀)か

・沖合20キロほどの海底が地震によって地滑りを起こしたことが原因か

となります。

 

詳報しますと、

山形大学の山野井徹名誉教授(地質学)らが海岸から1キロ内陸の庄内砂丘の標高25ー37.9メートルの4箇所で、砂丘内で泥の層を発見。

高潮などとは考えられないことから津波が押し寄せて海岸の沼の泥がまきあげられたのだろうと判断。泥の層から見つかった植物を調べたところ西暦1000年代から1100年代前半とわかったということです。

 

ふじのくに地球環境史ミュージアム(静岡市)の菅原大助准教授が、山形沖の海底地形で、地すべりのあとを見つけ、この海底地すべりが巨大津波を起こしたのではないかと説明します。

 

東日本大震災や南海トラフ地震のように海溝型の周期的に訪れる地震ならば対策も立てやすい(比較的)でしょうけども、こうした局地的な海底地すべりとなると、どうにも対処できないというのが現実ではないでしょうか。

沖合20キロ程度ならおそらく津波の到達時間はせいぜい数十分。そうなると避難は不可能ですよね。

海の近くに住むな、というのも無茶な話で。また難しい問題がでてきました。

 

さて、NHKのニュースでは、続きがあって、

実は考古学からも巨大地震の可能性がある痕跡が見つかっていたとします。

山形県教育委員会が提供している写真などで、役所のあった遺跡で、液状化現象や建物の柱が傾いた様子を紹介しています。

「平安後期まで役所があった遺跡です」とナレーションするだけで、遺跡名はでていません。庄内平野で役所があったところできちんと発掘されているというと、城輪柵跡(きのわのさくあと)が思い浮かびます。国指定の史跡なので有名な遺跡です。

 

『日本三代実録』という国の公式の歴史書のなかに

嘉祥3年(850年)に、この地域に津波が2度押し寄せたという記録があります。

実際に、城輪柵跡やその周辺の発掘では地震やそれによる津波とみられる現象が報告されています。

ただ、同じ平安時代でも、150年から200年も両者は離れています。

850年の嘉祥3年の地震津波につづいて、150年後にまた大きな津波が起きたのでしょうか。

 

海溝がないため大きな地震や津波が少ないと考えられがちですが、実際には1983年の日本海中部地震で津波などで100人も死亡しています。(ウィキペディアより)

 

 

 

 

美濃のマムシ斎藤道三の「国盗り物語二代記」

美濃の蝮・斎藤道三といえば、戦国時代の群雄割拠、下克上の象徴的な存在です。

司馬遼太郎の「国盗り物語」で、近江の油売りから一気に美濃一国の戦国大名にまでのし上がった栄達が描かれましたが、実は(同じような一代による国盗りとされる)北条早雲と同様に、一代で成し遂げた下克上ではありませんでした。

庶民の夢、一代での下克上は、平和ながらも身分が固定されて閉塞感が漂っていた江戸時代に、軍記ものというフィクションで広がっていったわけです。

ただ、同時代の史料で一代による美濃国盗りは否定されており、そのことについて武将ジャパンに寄稿しました。

ご関心あれば読んでいただければ幸いです。

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3月19日歴史本書評まとめ 武田勝頼はなぜ英雄になれなかったのか

フェイクニュースの時代だと実感させられる日々ですね。

フェイクニュースは海外のことと思っていたら、森友学園問題や築地市場のほうが大汚染されていた問題などで、教育者や知事など社会のリーダーと思われていた人がそのときそのときの情緒で、思い付きをポンポンと言って、それがそれなりに(本当であろうと、ウソであろうと)実際の社会や行政を動かしていくという現象を目の当たりにして、驚きおののくばかりです。

森本問題では、来週の証人喚問じたいも、あのキャラからしてとんでもなく盛り上がるライブになることでしょう。同じ日に、もしも進出したらWBCもあるので、酒場の話題には事欠かなそうです。

さて、世間では思ったよりも話題になっていないのが、村上春樹の『騎士団長殺し』ではないでしょうか。
これだけ、リアルな世界が面白い事噴出していれば、フィクションの世界にひたる必要もないってことですかね。

3月19日の読売新聞の書評では2人の方が書評していますが、「不思議だ」「やっぱり面白い」などの評でのありきたりな表現を見ると、タイトル通りたんなる軽い読み物なのかなという印象です。

歴史本では、2冊が書評されています。

750ページの厚さで、いま私も読んでいますが、その厚さに圧倒される
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)

 

 

武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

 

 

まだ読み切っていませんが、信長に滅ぼされたために、父の信玄に比べると愚将と評価される武田勝頼のイメージを排して、その実像を描こうというもののようです。

いずれわたしも書評を書く予定です。

もう1冊は、イタリア統一の英雄、ガリバルディについて
藤澤房俊『ガリバルディ』(中公新書)

 

ガリバルディ - イタリア建国の英雄 (中公新書)

ガリバルディ - イタリア建国の英雄 (中公新書)

 

 

「明治維新の直前に赤シャツを着てイタリア統一に導いた自由と平等の申し子であり、世紀の英雄である」(評者の出口治明氏)

戦後のゲバラのようにイタリアのみならず世界中で戦った名司令官の一生を追います。
こういう人は往々にして政治には長けてないようですが、どうやらそのようで、女性問題を起こしたりと、おもしろい人生だったようです。

武田勝頼は、信玄よりも版図を拡大しており、名将といえる部分もありました。
もう少しで英雄となれた人物です。
ガリバルディとの違いはどこにあったのでしょうね。
勝頼は、むしろ信玄が同盟国であった信長を一方的に裏切ったのが始まりですから、英雄の父親のしりぬぐいをさせられたというかわいそうな面もありそうです。

 

1/144 Zゼータガンダム ガルバルディβ

1/144 Zゼータガンダム ガルバルディβ

 

 

 

3・11の翌日の新聞書評面と歴史本

 6回目の「3・11」。これまでは11日に近い日曜日の書評欄も震災にまつわる本の紹介が多かったように感じていたが、今年は全国紙3紙では、宮城・気仙沼の養殖業でコラムニストの畠山重篤さんによる「空想書店」を特集した読売新聞以外、ほとんど震災関連のものがなかった。

 これには二つ理由があるだろう。

 一つは、「売れないから本を出さない」。震災ものの本の売れ行きの悪さは出版業界のなかでも広く浸透している。暗い話は基本的に、多くの人にとっては知りたくない話というのが大きいのではないだろうか。そのうえ震災報道でおなかいっぱいになって、一般の人にとても知識の満腹感もある。

 もう一つは、評者にとっても書評しにくいのだろう。各新聞の書評の担当者は当代一流の人たちである。こうした人たちは過去を振り返らない、前に進む力の強い人たちだ。特に学者などはそうでないと、とても最先端の成果をあげられないだろう。遅々として進まない復興への関心が一番に薄れていくのは、そうした社会のトップ知識層なのではないかと思う。それが一概に悪いとはいえないのだが。

 さて、知識人としてまつりあげられながらも、気仙沼で黙々と漁業を続ける畠山さんが、空想書店で1番に取り上げたのが、松永勝彦『森が消えれば海も死ぬ』(講談社ブルーバックス、800円)だ。

 畠山さんは「森は海の恋人」のキャッチコピーで、森を守ることで適切な養分が海に流れ、かきが育つという構図を広めた第一人者だ。その原点となるのが、この本とはしらなかった。しかも、何千円する専門書ではなく、800円の新書である。

 良書が値段が安く出版され、安いがために広く読まれて社会を変える。これは日本社会の誇りだ。

 この知識と社会を動かす本を通した仕組みがスマホによっって揺るいでいる。

 いまこそ「本は○○の恋人」とのフレーズが必要なのではないか。○○にふさわしい言葉がすぐにうかばないけれども。

 

 3月12日の書評でとりあげられた歴史関連の本を紹介していく。

 読売新聞

 平山裕人『シャクシャインの戦い』(寿郎社、2500円)

 最近、ヤングジャンプのアイヌの少女と旧日本軍兵士の物語「ゴールデン・カムイ」にはまっているので興味あり。

 純朴なアイヌを和人が抑圧するとされている見方から、アイヌの国際性についても描いているとのことだ。まさにゴールデン・カムイの世界観に通じるので購入決定。

すんごい表紙

 朝日新聞

 笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、3780円)

 評者の原武史放送大学教授によれば、「本書の説が正しければ、家康が最も恐れたのは自らの死後、淀殿が北条政子のような存在になることではなかったか」とのこと。面白そう。こちらも購入決定。

 毎日新聞

 恒例の「この3冊」に、おんな城主直虎を時代考証する小和田哲男・静岡大名誉教授が登場して、直虎についての3冊をあげている。

 大石泰史『井伊氏サバイバル五〇〇年』(星海新書)

 夏目琢史『井伊直虎 女領主・山の民・悪党』(講談社現代新書)

 川口素生『井伊直虎と戦国の女100人』(PHP文庫)

 どれも新書と文庫なので、いずれ手に取ってみたい。けど、来年になったらよまなくなりそうだけど。



飛鳥で未知の最大級の方墳小山田古墳が発見されたことから謎の亀石の存在意義を考えてみた

飛鳥で石舞台古墳(50メートル)よりも大きな一辺70メートルの方墳(もしくは上は円墳になっている上円下方墳)が見つかりました。2017年3月1日に奈良県立橿原考古学研究所が発表しました。古墳の名前は小山田古墳と名付けられました。

これだけ大きな未知の古墳が破壊されているとはいえ、見つかるのは珍しいことです。(正確には後述するように2015年1月にこの古墳の存在は同研究所によって発表されています)

場所としてはグーグルマップに黄色い丸で書いたように、大きな古墳が並んでいるエリアです。

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被葬者については、聖徳太子らの次の世代である舒明天皇(じょめい)が有力視されています。

石舞台古墳(上の地図の右恥)の被葬者として有力候補の蘇我馬子の息子の蘇我蝦夷(えみし)との説もあがっているそうです。

この古墳はいまは毎日新聞のキャプチャー(↓)にあるように養護学校の下にあり完全に壊れているのですが、そもそも古墳が造られてからすぐに壊された様子がわかるとのこと。

そのことから舒明天皇の最初のお墓で、それが壊されて改葬されて、現在のお墓とされている八角形墳の段ノ塚古墳(桜井市)へ移ったという説です。

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朝日新聞ではこんな感じです。

 

 飛鳥時代で最大級の方形の古墳(方墳)の可能性が高まった奈良県明日香村の小山田(こやまだ)古墳。そこに眠っていたのは、新しい国づくりを目指した舒明(じょめい)天皇(593~641)だったのか。天皇をしのぐ権勢を誇ったとされる豪族の蘇我蝦夷(そがのえみし)だったのか。なぜ、古墳は短期間で壊されたのか。古代史の謎が深まってきた。

 近畿の天皇や豪族の墓の形は、飛鳥時代を通じて変化する。3世紀中ごろの古墳時代初めから続いた前方後円墳は6世紀末に終わりを告げ、方墳に。7世紀中ごろからは天皇墓に八角形墳が採用される。その八角形墳の始まりが最古の国家寺院、百済大寺(くだらのおおでら)を建て、遣唐使を初めて派遣した舒明天皇の陵墓とされる段ノ塚古墳(奈良県桜井市)だ。

 舒明天皇は629年、7世紀前半に厩戸王(うまやとおう=聖徳太子)や蘇我馬子(うまこ)と政治を進めた推古(すいこ)天皇の死後に即位。馬子の子、蝦夷ら蘇我氏が権力を握るなか、飛鳥の中心から離れた地に百済宮(くだらのみや)や百済大寺を築く。蘇我氏とは距離を置き、天皇中心の中央集権国家づくりを目指したとの見方もある。

 近畿で最大級の方墳は聖徳太子の父、用明(ようめい)天皇の陵墓とされる大阪府太子町の春日向山古墳(東西66メートル、南北60メートル)や、推古天皇陵とされる山田高塚古墳(東西66メートル、南北58メートル)だが、一辺70メートルの小山田古墳の規模はこれらを上回る。木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「これだけの規模は天皇の墓としか考えられない」と述べ、舒明天皇の墓との見方を示す。

 

この頃の大王(天皇)の権力というのはまだ絶対的ではありませんでした。

有力な豪族にまつりあげられた邪馬台国の卑弥呼以来の祭祀王から、中国の皇帝制度(律令制)を導入した奈良時代の「天皇制」への移行期です。

墓の大きさだけで、誰と断定するのはなかなか難しいのです。

実際、天皇の権力は大きくなる一方で墓の大きさは小さくなります。

朝日新聞がわかりやすく図にしていますが、まさに見たとおりです。

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じゃあ、蘇我蝦夷の墓なの?

というと、大化の改新で敗者となったから壊されたということになるのでしょうか。なんとなく物語的にはピッタリする気がします。

蝦夷はたしかに生前に墓を造っているので、ありといえばありなのですが、下の地図にあるように小山田古墳の右上の緑の部分に、蘇我蝦夷や入鹿の館があったことが最近の発掘で判明しています。

当然ながらお墓というのは、ケガレの地です。ハレの地である自分の住居のすぐ隣に墓を作るかなぁ~というのが大きな違和感です。

むしろ、もともとお墓の場所だった飛鳥が、いつの間にか、だんだんと政治の場(ハレ)になってきてしまって、ハレの場所の用地が少なくなったので、ちょっとはみ出ていた場所にあった小山田古墳を改葬して、とおくの桜井市の段ノ塚古墳におしゃれで最新で(でも小さい)お墓を作り直したのかなと思っています。

つまり、舒明天皇の最初の墓説ですね。

そうすると、謎の石造物である亀石なんかも、小山田古墳の破壊(改葬)後に、ハレの地とケガレの地を南北に線引するための境界線として、置いたということになって、亀石の境界線説にも矛盾しなくて、よいのではないかなぁとつらつらと考えています。

 

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なお、小山田古墳が舒明天皇の墓と言われたのは、今回が初めてではありません。

2015年1月のことでした。

そのときに、こののちに小山田古墳と呼ばれる墓と、舒明天皇とその後の大化の改新について3回にわたって、武将ジャパンに寄稿していますので、ご参考までに。

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井伊直虎は世界に一つだけの花なのか否か

おんな城主直虎は、子役の活躍がすばらしく

「リフティング勝負(蹴鞠)している直虎子見て泣いた」と、知り合いのおじさんが話していました。

とはいえ、脚本・演技よければフィクションなのだからなんでもよし!

とならないのが、われらが大河ドラマの大河ドラマたるゆえんです

自治体も億単位の税金を投入するなど、リアルでも影響が大きいですからね。

その直虎を巡っては、その実像がほとんどわからないだけに、いろいろと周辺がにぎやかです。

最近では「直虎」の登録商法を巡り、静岡の井伊直虎にさきんじて、隣の長野県でも幕末の藩主堀直虎さんが登録に成功したとかで、もめています。

 

www.sankei.com

堀直虎って誰よ?ということで

bushoojapan.com本郷和人東大史料編纂所教授が解説しています。

 

本郷「♪あいはぶあぺん、あいはぶあんあぽー」
姫「はあ。何をのんきそうに歌ってるの?きもいわね」
本郷「いや、今大流行のppapをさ」
姫「おそっ。いまさら?そんなことより直虎の話を進めなさいよ」
本郷「おやすみ」
姫「へ?」
本郷「いや、だから、一週だけおやすみ。直虎の話はものすごく気を遣うので、リフレッシュ休暇をいただいたんだ。それでご機嫌でね。♪ppap」

 このノリwww

イントロはこんな感じですが、相変わらずずばりとわかりやすいです。

 

そして、もっと大問題となっているのが「井伊直虎=男説」。

世間に火を付けたのが

京都の井伊美術館の館長さんでした。

井伊家の末裔を自称しているので、世間の注目も集まったのですが、

www.nikkei.com

この御方、「井伊家末裔」になったのは最近。ということは、業界では知られておりまして。。。

週刊新潮(2017年2月2日号)にて

4)井伊美術館の怪しい館長が唱えている「井伊直虎は男説」

として取り上げています。

1)井伊館長は最近になって井伊家の分家の末裔の養子になって井伊を名乗るようになった(*それまではたしか中村さんでなかったですっけ?)

2)商売が甲冑を売る骨董屋さん

3)どんどん甲冑をデコレートしてしまうというので有名

4)家康の兜というのも金箔を貼りまくり、嵐の二宮さんにかぶせて有名に

と、館長個人の「怪しさ」を全面に出しています。

名前を変えるというのは古より、「権威」付けのために有効な方策でして、ちょうど信長がそれを利用したという記事もありました。

前半生が謎の明智光秀は、京都の幕府の家臣の進士藤延という人物だったのですが、三好三人衆によるクーデターで失脚して、信長に拾われました。信長はその頃、美濃国(岐阜)を強奪したばかりだったので、美濃の名族の「明智」の姓を光秀に名乗らせたというものです。光秀のお母さんが美濃出身なんだとか。

www.yomiuri.co.jp

週刊新潮に話を戻しまして、記事のなかで、例の直虎=男説については「100年後の聞き書き」をもとに男説を主張していると、やんわりと男説も批判的ですが、この「100年後」がアウトなら、そもそも直虎=女説は、150年後のゆかりあるお坊さんの聞き書きですのでね。

いずれにしても、女説も男説も微妙なわけです。

これについては、歴史家の探求がはじまっていますので、どう転ぶのか、注目しています。

1月11日には、浜松の大学にいらした磯田道史・国際日本文化研究センター准教授が読売新聞の連載「古今をちこち」にて、以下のように説明しています。

長いですが、核となる部分を引用します。

 

 新聞各紙は「大河の主人公に男説」といったタイトルを打ったが、正確には「大河の主人公直虎を名乗らなかった?」とすべきであった。大河ドラマの主人公になった井伊谷(浜松市北区)の女性領主「次郎法師」は確かに実在した。数々の古文書や一次史料をあわせてみれば歴史的に明らかで動かない。しかし尼の彼女が「次郎直虎」と名乗り、男のように花押(サイン)までしたか。新史料発見でその点に疑義が生じたのが事の真相だ。

(略)

「次郎直虎」と署名された史料は1点しか残されてない。そのため戦国井伊家の歴史の細部は江戸期の伝承による所が大きい。

 「女領主」の物語は井伊家菩提(ぼだい)寺の龍潭寺(りょうたんじ)で1730年に記された『井伊家伝記』による。86歳まで長生きした僧・松岩などの記憶をもとに伝承を住職がまとめたもので創作物ではないが変な記述もある。今回見つかった史料も似ている。次郎法師の母方いとこの女性が96歳まで生きた。当時としては奇跡的長寿。死の3年前、1640年に実家の井伊家への功績を語った。これを甥(おい)の井伊家家老・木俣守安が書記し、1735年に子孫がまとめたのが今回の新史料『守安公書記・雑秘説写記』である。そこに問題の記述があった。
 「一、井の谷ハ面々持ちにてしつまりかね候ニ付て、其後関口越後守子を井の次郎に被成、井の谷を被下也。然れ共、井の次郎若年…」。井伊谷は銘々が領有して鎮まらない。そこで関口越後守の子を井の次郎(井伊家当主の呼称)にし、これに井伊谷を与えたが、若年で、という意味だ。その頃、井伊家は駿河の大名今川氏真の家臣。今川家が「若年」の男子を連れてきて井伊家を継がせたとの記述だ。本当なら井伊家に未知の当主がいたことになる。ただ、これが、いつのことかは書かれておらず、新当主が「直虎」と名乗ったとも記されていない。
 1568年旧暦9月14日の時点では、次郎法師が井伊谷の支配者。今川家=氏真もその認識であった(「瀬戸方久宛今川氏真判物」)。ところが、この時、氏真は滅亡寸前。東から武田信玄が侵攻。西からは徳川家康が遠江の豪族たちに廻(かい)覧(らん)状を回し、今川からの離反内通を公然と誘っていた(同年8月3日付家康書状)。そんななか、同年11月9日付関口越後守との連名書状に突如「次郎直虎」が登場する(「蜂前(はちさき)神社文書」)。
 ひょっとすると、井伊家当主「直虎」は約1ヶ月だけ存在したかもしれない。滅亡寸前、追い込まれた氏真が、家康との戦闘準備のため、国境地帯の井伊谷に、少年の傀儡(かいらい)当主を立てようとした可能性がある。しかし翌12月に家康軍が井伊谷に侵攻し併呑(へいどん)。13日には信玄の攻撃で駿府の氏真政権は崩壊。直虎少年はいたとしても井伊谷を追い出されたに違いない。それで直虎は幻の当主になったのではないか。(略)

そして本郷教授もこのことについて考察を続けており、

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「ええと、井伊直盛には28歳の時に誕生した子どもがいた。その子は幼名が『次郎法師』。それで、直盛と直親が亡くなった後、次郎法師は井伊家の当主としての仕事をしている、というところね」

 

 

どういうことなのか。

どうやら、男の井伊直虎という井伊家の当主となった幻の人物がいたらしい。

ということになりそうです。

意見がわかれるのは、この男「井伊直虎」のほかにも、おんな城主がいたのか、それともいなかったのか。

すっきりする答えと証明は難しそうですが、歴史の探求という点ではこれほど面白い題材はないかもしれません。

 

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

 

 

 

 

『看護婦の歴史』書評を寄稿しました

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新刊の『看護婦の歴史』の書評を武将ジャパンに寄稿しました。

 

看護婦の歴史: 寄り添う専門職の誕生

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