歴史ニュースウォーカー

歴史作家の恵美嘉樹が歴史のニュースや本の世界を歩く記録です

3月19日歴史本書評まとめ 武田勝頼はなぜ英雄になれなかったのか

フェイクニュースの時代だと実感させられる日々ですね。

フェイクニュースは海外のことと思っていたら、森友学園問題や築地市場のほうが大汚染されていた問題などで、教育者や知事など社会のリーダーと思われていた人がそのときそのときの情緒で、思い付きをポンポンと言って、それがそれなりに(本当であろうと、ウソであろうと)実際の社会や行政を動かしていくという現象を目の当たりにして、驚きおののくばかりです。

森本問題では、来週の証人喚問じたいも、あのキャラからしてとんでもなく盛り上がるライブになることでしょう。同じ日に、もしも進出したらWBCもあるので、酒場の話題には事欠かなそうです。

さて、世間では思ったよりも話題になっていないのが、村上春樹の『騎士団長殺し』ではないでしょうか。
これだけ、リアルな世界が面白い事噴出していれば、フィクションの世界にひたる必要もないってことですかね。

3月19日の読売新聞の書評では2人の方が書評していますが、「不思議だ」「やっぱり面白い」などの評でのありきたりな表現を見ると、タイトル通りたんなる軽い読み物なのかなという印象です。

歴史本では、2冊が書評されています。

750ページの厚さで、いま私も読んでいますが、その厚さに圧倒される
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)

 

 

武田氏滅亡 (角川選書)

武田氏滅亡 (角川選書)

 

 

まだ読み切っていませんが、信長に滅ぼされたために、父の信玄に比べると愚将と評価される武田勝頼のイメージを排して、その実像を描こうというもののようです。

いずれわたしも書評を書く予定です。

もう1冊は、イタリア統一の英雄、ガリバルディについて
藤澤房俊『ガリバルディ』(中公新書)

 

ガリバルディ - イタリア建国の英雄 (中公新書)

ガリバルディ - イタリア建国の英雄 (中公新書)

 

 

「明治維新の直前に赤シャツを着てイタリア統一に導いた自由と平等の申し子であり、世紀の英雄である」(評者の出口治明氏)

戦後のゲバラのようにイタリアのみならず世界中で戦った名司令官の一生を追います。
こういう人は往々にして政治には長けてないようですが、どうやらそのようで、女性問題を起こしたりと、おもしろい人生だったようです。

武田勝頼は、信玄よりも版図を拡大しており、名将といえる部分もありました。
もう少しで英雄となれた人物です。
ガリバルディとの違いはどこにあったのでしょうね。
勝頼は、むしろ信玄が同盟国であった信長を一方的に裏切ったのが始まりですから、英雄の父親のしりぬぐいをさせられたというかわいそうな面もありそうです。

 

1/144 Zゼータガンダム ガルバルディβ

1/144 Zゼータガンダム ガルバルディβ

 

 

 

3・11の翌日の新聞書評面と歴史本

 6回目の「3・11」。これまでは11日に近い日曜日の書評欄も震災にまつわる本の紹介が多かったように感じていたが、今年は全国紙3紙では、宮城・気仙沼の養殖業でコラムニストの畠山重篤さんによる「空想書店」を特集した読売新聞以外、ほとんど震災関連のものがなかった。

 これには二つ理由があるだろう。

 一つは、「売れないから本を出さない」。震災ものの本の売れ行きの悪さは出版業界のなかでも広く浸透している。暗い話は基本的に、多くの人にとっては知りたくない話というのが大きいのではないだろうか。そのうえ震災報道でおなかいっぱいになって、一般の人にとても知識の満腹感もある。

 もう一つは、評者にとっても書評しにくいのだろう。各新聞の書評の担当者は当代一流の人たちである。こうした人たちは過去を振り返らない、前に進む力の強い人たちだ。特に学者などはそうでないと、とても最先端の成果をあげられないだろう。遅々として進まない復興への関心が一番に薄れていくのは、そうした社会のトップ知識層なのではないかと思う。それが一概に悪いとはいえないのだが。

 さて、知識人としてまつりあげられながらも、気仙沼で黙々と漁業を続ける畠山さんが、空想書店で1番に取り上げたのが、松永勝彦『森が消えれば海も死ぬ』(講談社ブルーバックス、800円)だ。

 畠山さんは「森は海の恋人」のキャッチコピーで、森を守ることで適切な養分が海に流れ、かきが育つという構図を広めた第一人者だ。その原点となるのが、この本とはしらなかった。しかも、何千円する専門書ではなく、800円の新書である。

 良書が値段が安く出版され、安いがために広く読まれて社会を変える。これは日本社会の誇りだ。

 この知識と社会を動かす本を通した仕組みがスマホによっって揺るいでいる。

 いまこそ「本は○○の恋人」とのフレーズが必要なのではないか。○○にふさわしい言葉がすぐにうかばないけれども。

 

 3月12日の書評でとりあげられた歴史関連の本を紹介していく。

 読売新聞

 平山裕人『シャクシャインの戦い』(寿郎社、2500円)

 最近、ヤングジャンプのアイヌの少女と旧日本軍兵士の物語「ゴールデン・カムイ」にはまっているので興味あり。

 純朴なアイヌを和人が抑圧するとされている見方から、アイヌの国際性についても描いているとのことだ。まさにゴールデン・カムイの世界観に通じるので購入決定。

すんごい表紙

 朝日新聞

 笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、3780円)

 評者の原武史放送大学教授によれば、「本書の説が正しければ、家康が最も恐れたのは自らの死後、淀殿が北条政子のような存在になることではなかったか」とのこと。面白そう。こちらも購入決定。

 毎日新聞

 恒例の「この3冊」に、おんな城主直虎を時代考証する小和田哲男・静岡大名誉教授が登場して、直虎についての3冊をあげている。

 大石泰史『井伊氏サバイバル五〇〇年』(星海新書)

 夏目琢史『井伊直虎 女領主・山の民・悪党』(講談社現代新書)

 川口素生『井伊直虎と戦国の女100人』(PHP文庫)

 どれも新書と文庫なので、いずれ手に取ってみたい。けど、来年になったらよまなくなりそうだけど。



飛鳥で未知の最大級の方墳小山田古墳が発見されたことから謎の亀石の存在意義を考えてみた

飛鳥で石舞台古墳(50メートル)よりも大きな一辺70メートルの方墳(もしくは上は円墳になっている上円下方墳)が見つかりました。2017年3月1日に奈良県立橿原考古学研究所が発表しました。古墳の名前は小山田古墳と名付けられました。

これだけ大きな未知の古墳が破壊されているとはいえ、見つかるのは珍しいことです。(正確には後述するように2015年1月にこの古墳の存在は同研究所によって発表されています)

場所としてはグーグルマップに黄色い丸で書いたように、大きな古墳が並んでいるエリアです。

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被葬者については、聖徳太子らの次の世代である舒明天皇(じょめい)が有力視されています。

石舞台古墳(上の地図の右恥)の被葬者として有力候補の蘇我馬子の息子の蘇我蝦夷(えみし)との説もあがっているそうです。

この古墳はいまは毎日新聞のキャプチャー(↓)にあるように養護学校の下にあり完全に壊れているのですが、そもそも古墳が造られてからすぐに壊された様子がわかるとのこと。

そのことから舒明天皇の最初のお墓で、それが壊されて改葬されて、現在のお墓とされている八角形墳の段ノ塚古墳(桜井市)へ移ったという説です。

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朝日新聞ではこんな感じです。

 

 飛鳥時代で最大級の方形の古墳(方墳)の可能性が高まった奈良県明日香村の小山田(こやまだ)古墳。そこに眠っていたのは、新しい国づくりを目指した舒明(じょめい)天皇(593~641)だったのか。天皇をしのぐ権勢を誇ったとされる豪族の蘇我蝦夷(そがのえみし)だったのか。なぜ、古墳は短期間で壊されたのか。古代史の謎が深まってきた。

 近畿の天皇や豪族の墓の形は、飛鳥時代を通じて変化する。3世紀中ごろの古墳時代初めから続いた前方後円墳は6世紀末に終わりを告げ、方墳に。7世紀中ごろからは天皇墓に八角形墳が採用される。その八角形墳の始まりが最古の国家寺院、百済大寺(くだらのおおでら)を建て、遣唐使を初めて派遣した舒明天皇の陵墓とされる段ノ塚古墳(奈良県桜井市)だ。

 舒明天皇は629年、7世紀前半に厩戸王(うまやとおう=聖徳太子)や蘇我馬子(うまこ)と政治を進めた推古(すいこ)天皇の死後に即位。馬子の子、蝦夷ら蘇我氏が権力を握るなか、飛鳥の中心から離れた地に百済宮(くだらのみや)や百済大寺を築く。蘇我氏とは距離を置き、天皇中心の中央集権国家づくりを目指したとの見方もある。

 近畿で最大級の方墳は聖徳太子の父、用明(ようめい)天皇の陵墓とされる大阪府太子町の春日向山古墳(東西66メートル、南北60メートル)や、推古天皇陵とされる山田高塚古墳(東西66メートル、南北58メートル)だが、一辺70メートルの小山田古墳の規模はこれらを上回る。木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「これだけの規模は天皇の墓としか考えられない」と述べ、舒明天皇の墓との見方を示す。

 

この頃の大王(天皇)の権力というのはまだ絶対的ではありませんでした。

有力な豪族にまつりあげられた邪馬台国の卑弥呼以来の祭祀王から、中国の皇帝制度(律令制)を導入した奈良時代の「天皇制」への移行期です。

墓の大きさだけで、誰と断定するのはなかなか難しいのです。

実際、天皇の権力は大きくなる一方で墓の大きさは小さくなります。

朝日新聞がわかりやすく図にしていますが、まさに見たとおりです。

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じゃあ、蘇我蝦夷の墓なの?

というと、大化の改新で敗者となったから壊されたということになるのでしょうか。なんとなく物語的にはピッタリする気がします。

蝦夷はたしかに生前に墓を造っているので、ありといえばありなのですが、下の地図にあるように小山田古墳の右上の緑の部分に、蘇我蝦夷や入鹿の館があったことが最近の発掘で判明しています。

当然ながらお墓というのは、ケガレの地です。ハレの地である自分の住居のすぐ隣に墓を作るかなぁ~というのが大きな違和感です。

むしろ、もともとお墓の場所だった飛鳥が、いつの間にか、だんだんと政治の場(ハレ)になってきてしまって、ハレの場所の用地が少なくなったので、ちょっとはみ出ていた場所にあった小山田古墳を改葬して、とおくの桜井市の段ノ塚古墳におしゃれで最新で(でも小さい)お墓を作り直したのかなと思っています。

つまり、舒明天皇の最初の墓説ですね。

そうすると、謎の石造物である亀石なんかも、小山田古墳の破壊(改葬)後に、ハレの地とケガレの地を南北に線引するための境界線として、置いたということになって、亀石の境界線説にも矛盾しなくて、よいのではないかなぁとつらつらと考えています。

 

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なお、小山田古墳が舒明天皇の墓と言われたのは、今回が初めてではありません。

2015年1月のことでした。

そのときに、こののちに小山田古墳と呼ばれる墓と、舒明天皇とその後の大化の改新について3回にわたって、武将ジャパンに寄稿していますので、ご参考までに。

bushoojapan.com

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井伊直虎は世界に一つだけの花なのか否か

おんな城主直虎は、子役の活躍がすばらしく

「リフティング勝負(蹴鞠)している直虎子見て泣いた」と、知り合いのおじさんが話していました。

とはいえ、脚本・演技よければフィクションなのだからなんでもよし!

とならないのが、われらが大河ドラマの大河ドラマたるゆえんです

自治体も億単位の税金を投入するなど、リアルでも影響が大きいですからね。

その直虎を巡っては、その実像がほとんどわからないだけに、いろいろと周辺がにぎやかです。

最近では「直虎」の登録商法を巡り、静岡の井伊直虎にさきんじて、隣の長野県でも幕末の藩主堀直虎さんが登録に成功したとかで、もめています。

 

www.sankei.com

堀直虎って誰よ?ということで

bushoojapan.com本郷和人東大史料編纂所教授が解説しています。

 

本郷「♪あいはぶあぺん、あいはぶあんあぽー」
姫「はあ。何をのんきそうに歌ってるの?きもいわね」
本郷「いや、今大流行のppapをさ」
姫「おそっ。いまさら?そんなことより直虎の話を進めなさいよ」
本郷「おやすみ」
姫「へ?」
本郷「いや、だから、一週だけおやすみ。直虎の話はものすごく気を遣うので、リフレッシュ休暇をいただいたんだ。それでご機嫌でね。♪ppap」

 このノリwww

イントロはこんな感じですが、相変わらずずばりとわかりやすいです。

 

そして、もっと大問題となっているのが「井伊直虎=男説」。

世間に火を付けたのが

京都の井伊美術館の館長さんでした。

井伊家の末裔を自称しているので、世間の注目も集まったのですが、

www.nikkei.com

この御方、「井伊家末裔」になったのは最近。ということは、業界では知られておりまして。。。

週刊新潮(2017年2月2日号)にて

4)井伊美術館の怪しい館長が唱えている「井伊直虎は男説」

として取り上げています。

1)井伊館長は最近になって井伊家の分家の末裔の養子になって井伊を名乗るようになった(*それまではたしか中村さんでなかったですっけ?)

2)商売が甲冑を売る骨董屋さん

3)どんどん甲冑をデコレートしてしまうというので有名

4)家康の兜というのも金箔を貼りまくり、嵐の二宮さんにかぶせて有名に

と、館長個人の「怪しさ」を全面に出しています。

名前を変えるというのは古より、「権威」付けのために有効な方策でして、ちょうど信長がそれを利用したという記事もありました。

前半生が謎の明智光秀は、京都の幕府の家臣の進士藤延という人物だったのですが、三好三人衆によるクーデターで失脚して、信長に拾われました。信長はその頃、美濃国(岐阜)を強奪したばかりだったので、美濃の名族の「明智」の姓を光秀に名乗らせたというものです。光秀のお母さんが美濃出身なんだとか。

www.yomiuri.co.jp

週刊新潮に話を戻しまして、記事のなかで、例の直虎=男説については「100年後の聞き書き」をもとに男説を主張していると、やんわりと男説も批判的ですが、この「100年後」がアウトなら、そもそも直虎=女説は、150年後のゆかりあるお坊さんの聞き書きですのでね。

いずれにしても、女説も男説も微妙なわけです。

これについては、歴史家の探求がはじまっていますので、どう転ぶのか、注目しています。

1月11日には、浜松の大学にいらした磯田道史・国際日本文化研究センター准教授が読売新聞の連載「古今をちこち」にて、以下のように説明しています。

長いですが、核となる部分を引用します。

 

 新聞各紙は「大河の主人公に男説」といったタイトルを打ったが、正確には「大河の主人公直虎を名乗らなかった?」とすべきであった。大河ドラマの主人公になった井伊谷(浜松市北区)の女性領主「次郎法師」は確かに実在した。数々の古文書や一次史料をあわせてみれば歴史的に明らかで動かない。しかし尼の彼女が「次郎直虎」と名乗り、男のように花押(サイン)までしたか。新史料発見でその点に疑義が生じたのが事の真相だ。

(略)

「次郎直虎」と署名された史料は1点しか残されてない。そのため戦国井伊家の歴史の細部は江戸期の伝承による所が大きい。

 「女領主」の物語は井伊家菩提(ぼだい)寺の龍潭寺(りょうたんじ)で1730年に記された『井伊家伝記』による。86歳まで長生きした僧・松岩などの記憶をもとに伝承を住職がまとめたもので創作物ではないが変な記述もある。今回見つかった史料も似ている。次郎法師の母方いとこの女性が96歳まで生きた。当時としては奇跡的長寿。死の3年前、1640年に実家の井伊家への功績を語った。これを甥(おい)の井伊家家老・木俣守安が書記し、1735年に子孫がまとめたのが今回の新史料『守安公書記・雑秘説写記』である。そこに問題の記述があった。
 「一、井の谷ハ面々持ちにてしつまりかね候ニ付て、其後関口越後守子を井の次郎に被成、井の谷を被下也。然れ共、井の次郎若年…」。井伊谷は銘々が領有して鎮まらない。そこで関口越後守の子を井の次郎(井伊家当主の呼称)にし、これに井伊谷を与えたが、若年で、という意味だ。その頃、井伊家は駿河の大名今川氏真の家臣。今川家が「若年」の男子を連れてきて井伊家を継がせたとの記述だ。本当なら井伊家に未知の当主がいたことになる。ただ、これが、いつのことかは書かれておらず、新当主が「直虎」と名乗ったとも記されていない。
 1568年旧暦9月14日の時点では、次郎法師が井伊谷の支配者。今川家=氏真もその認識であった(「瀬戸方久宛今川氏真判物」)。ところが、この時、氏真は滅亡寸前。東から武田信玄が侵攻。西からは徳川家康が遠江の豪族たちに廻(かい)覧(らん)状を回し、今川からの離反内通を公然と誘っていた(同年8月3日付家康書状)。そんななか、同年11月9日付関口越後守との連名書状に突如「次郎直虎」が登場する(「蜂前(はちさき)神社文書」)。
 ひょっとすると、井伊家当主「直虎」は約1ヶ月だけ存在したかもしれない。滅亡寸前、追い込まれた氏真が、家康との戦闘準備のため、国境地帯の井伊谷に、少年の傀儡(かいらい)当主を立てようとした可能性がある。しかし翌12月に家康軍が井伊谷に侵攻し併呑(へいどん)。13日には信玄の攻撃で駿府の氏真政権は崩壊。直虎少年はいたとしても井伊谷を追い出されたに違いない。それで直虎は幻の当主になったのではないか。(略)

そして本郷教授もこのことについて考察を続けており、

bushoojapan.com

 

「ええと、井伊直盛には28歳の時に誕生した子どもがいた。その子は幼名が『次郎法師』。それで、直盛と直親が亡くなった後、次郎法師は井伊家の当主としての仕事をしている、というところね」

 

 

どういうことなのか。

どうやら、男の井伊直虎という井伊家の当主となった幻の人物がいたらしい。

ということになりそうです。

意見がわかれるのは、この男「井伊直虎」のほかにも、おんな城主がいたのか、それともいなかったのか。

すっきりする答えと証明は難しそうですが、歴史の探求という点ではこれほど面白い題材はないかもしれません。

 

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

 

 

 

 

『看護婦の歴史』書評を寄稿しました

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新刊の『看護婦の歴史』の書評を武将ジャパンに寄稿しました。

 

看護婦の歴史: 寄り添う専門職の誕生

看護婦の歴史: 寄り添う専門職の誕生

 

 

古事記はなぜ出雲神話を隠蔽したのか?【オオクニヌシ 最強の日本の神様エントリーNo4】

オオクニヌシ 臥薪嘗胆で地上初の支配者となった苦労人 

最強の日本の神様のエントリーNo4です。

応援コメントは

コメントいただいた分はこれで一応終了ですが、ゆっくりほかの神様の分も続けていきます。

古事記を読むと、オオクニヌシのスター性に衝撃を受けるよね。イザナギとかってジョジョでいうジョナサンで、オオクニヌシでついに承太郎出てきた感がある。

我が故郷の氷川神社は出雲の流れをくむのでやはりオオクニヌシは贔屓してしまうな

の、お二人さまがあげてくれたオオクニヌシ(大国主)です。

 

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いくつもの名前を持つ男


 天の世界でアマテラス(天照)とスサノオ(須佐之男)の姉弟が争い、やぶれたスサノオが出雲に降臨してから長い時間がたち、ようやく地上に「王」が誕生します。

 最初に地上世界を支配したのは、アマテラスの子孫ではなく、スサノオから数えて6代目のオオクニヌシでした。
 オオクニヌシは出雲大社にまつられる偉大な神で、日本神話の中でも特に知名度が高いでしょう。兄たちのいじめなど数々の困難を乗り越えて成り上がっていく物語には、読む人を奮い立たせる力があるとともに、たくさんの古代史の謎を解き明かす鍵がちりばめられているのです。

 オオクニヌシには、オオナムヂ、ヤチホコ、アシハラシコノオなどたくさんの別名があります。成り上がるたびに名前が増えていくのですが、名前をたくさんもっている神ということは、それだけ力が強いことも意味します。

 日本人が子供の頃の名前を後生大事に使い続けるようになったのは明治の文明開化からと比較的新しいのです。室町時代や江戸時代から続く能、狂言、落語など古典芸能で頻繁に行われる襲名の原点は、オオクニヌシら神話の時代にまでさかのぼれるといえます。

 さて、出雲神話の舞台は日本海側の山陰地方であることはいうまでもありません。では、いつの時代の歴史が反映されているのでしょうか。

 歴史研究家は本来、神話と歴史的事実を結びつけることに極めて慎重です。しかし、出雲については、これまでの定説を覆すような弥生時代の遺跡の発見が相次いでおり、そのため、出雲神話には弥生時代や古墳時代などの史実が反映されていると考える意見が専門家からも多いのです。

 

日本書紀はなぜ出雲神話を「隠した」?

 出雲最大の謎は、オオクニヌシの天下統一までのプロセスについて、『古事記』では詳述されているのに、ヤマト公認の歴史書である『日本書紀』は一切触れられていないことです。

 ヤマト王権の支配の正統性を主張することが『日本書紀』の目的だったから、ヤマトよりも先に日本を統一した英雄が地方にいたことを、公式の歴史として盛り込みたくなかったためと考えられています。

 『日本書紀』が必死に隠蔽工作を行った一方で、記紀以上に地元の「言い分」が盛り込まれている歴史書も残っています。
 712年にできた『古事記』から約20年後の733年に完成した『出雲国風土記』です。この中でオオクニヌシは「天(あめ)の下つくりましし大神オホナモチ」と、天下統一をした神との称号を与えられています。
 日本初の天下人(神)だったオオクニヌシの道のりは、後世の天下人である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らと同様、苦難の道でした。

オオクニヌシの兄弟たちはライバルの小国家?


 オオクニヌシにはたくさんの兄弟神がいた。その数、八十柱と『古事記』は伝える。
 「八十」は実数ではなく「非常に多い」ことを意味する場合が多いですが、弥生時代の日本の姿も近い数字のクニがあったようです。
 この兄弟神はオオクニヌシが戦わねばならなかったクニたちを現しています。中国の歴史書『漢書地理志』では、邪馬台国より前の日本(倭)について「倭人の国は百余国あった」と明記しています。考古学からも現代の市や県規模の領域をもつクニが多数あったことがわかっています。

試験官・白ウサギの難問を突破

 オオクニヌシと兄弟神は、因幡(出雲の国の東、鳥取県東部)の美女ヤガミ姫に求婚するために旅立ちます。このとき、オオクニヌシだけが兄弟の間で差別されており、荷物持ちにさせられていました。この後もオオクニヌシVS.そのほかの兄弟という構図が続くのですが、彼の実力を妬んだのか大勢で「いじめ」ていたのです。

 手ぶらで先を行く兄弟神は、海辺の岬で皮をはがされ赤い肌がむき出しになって倒れているウサギを見つけました。神々は「海で塩水につかってから、風の当たる場所で休むといいぞ」と嘘の忠告を与えました。少しでも苦しみを軽くしようとウサギはこの妄言を真に受けてしまうのです。

 当然ながら、乾燥した塩分はむき出しの肌をさらに傷めてしまいます。悶絶しそうなウサギを、あとから大きな荷物を背負ってやってきたオオクニヌシが見つけると、真水で体を洗い、薬草を塗るよう正しく指示します。するとウサギは回復し、もとの白い毛が生えてきました。

 ウサギはお礼に「先にいった神々はヤガミ姫を手に入れることはできないでしょう。選ばれるのはあなたです」と予言をしました。

 実際には予言ではなく、結論でした。このウサギも実は神であり、だれが姫の夫にふさわしいかを試す試験官の役割をもっていたというわけです。

 かくしてヤガミ姫は兄弟神に対して「私はあなたたちとは結婚しません。私にふさわしいのはオオクニヌシ様です」と一蹴。屈辱を受けた兄弟神はあわてて引き返し、遅れてやってきたオオクニヌシをヤガミ姫に会わせないように山へと拉致しました。

 そして、「この山には真っ赤な猪がいる。俺たちが山の上からイノシシを追うから、お前は下で受け止めるんだぞ」と命じるのです。

 兄弟神は猪に似た巨石を用意すると、それをカンカンに熱して灼熱で真っ赤にすると、オオクニヌシめがけて突き落としました。焼けた石はオオクニヌシを直撃、その命を奪いました。

木の国(吉備)へ脱出


 しかし、オオクニヌシは母の祈りで蘇生します。しかし、兄弟神はすかさず生き返ったオオクニヌシを木の間にはさみ殺してしまいます。そしてまた母の祈りで、再び命を取り戻すということを繰り返しました。

 あまりに兄弟神の嫉妬が激しいため、オオクニヌシは木の国へと脱出します。木の国は、古墳時代まで「キ(木)の国」と呼ばれていた近畿地方の紀伊国(和歌山県)との説が有力です。しかし、この神話がなんらかの史実を反映しているという前提で考えれば、出雲と紀伊ではあまりに離れすぎています。

 出雲の近辺で「木の国」の候補をあげれば、音の近い瀬戸内海側の吉備(岡山県)があげられます。

 中国山地は標高が低いので、南北の往来は比較的楽です。さらに弥生時代後期、出雲と吉備の一部で土器の様式などが共通していたことも考古学の成果で最近になってわかってきました。
 山陰と山陽で人の行き来があったことはまちがいなく、同盟関係が結ばれていた可能性も十分にあるでしょう。

 神話に話を戻します。
 木の国の神、オオヤヒコにかくまわれたオオクニヌシを、兄弟神はさらに追いかけてきました。オオヤヒコはオオクニヌシを巨木の洞に隠しました。

ご先祖、スサノオとの出会い

 実はこの洞は、黄泉の国と並ぶ異界「根(ね)の堅洲(かたす)の国(根の国)」につながるトンネルでした。根の国は時空を超えた異界です。なにしろ、ここを支配しているのが、6代前の先祖であるスサノオだったのですから。

 6代も前となると、お互いに先祖、子孫という感覚もなかったのでしょう。オオクニヌシはスサノオの娘、スセリ姫と結ばれることになります。

 しかし、舅(しゅうと)となったスサノオは婿と認めず、蛇の部屋に押し込めたり、草原に置いて周りから火を付けたりと、かつてアマテラスを難儀させたことを思い出させる暴れぶりで、何度もオオクニヌシを窮地に追い込みました。

三種の神宝で天下統一


 スセリ姫の助けで危機をなんとか乗り越えたオオクニヌシは、寝ているスサノオの髪を建物の柱に縛り付けました。そして、スサノオの三種の神宝、太刀と弓と琴を奪うと、妻を背負い根の国を脱出しました。

 スサノオは追うのをあきらめ、「その太刀と弓で兄弟たちを倒し、葦原中津国(あしはらなかつくに)(地上世界)を統治せよ」と、ようやく婿にエールをおくったのでした。

 地上世界に戻ったオオクニヌシはスサノオの武器で次々と兄弟を倒しました。こうして、地上世界は初めてひとりの神によって統一されたのです。

 考古学的には、3~4世紀のヤマト王権よりも前に列島を統一した勢力があった証拠はありません。弥生時代の各地の有力な勢力はせいぜい今の県か市レベルの支配域しかもっていませんでした。

 しかし出雲だけは例外で、ヤマトよりもはるかに早い1~2世紀頃、富山県を東端とする日本海沿岸のかなり広範囲に、ヒトデのような形をした「四隅突出型墳丘墓(しすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」という出雲文化を広げていたことが考古学からわかっています。

 実際、オオクニヌシが結婚した女性の出身地を見ると、西は玄界灘の孤島・沖ノ島の宗像大社沖津宮(おきつみや)にまつられるタギツ姫(福岡県)、東は新潟県のヌナカワ姫までと、考古学上で確認される出雲の勢力圏とかなり重なっています。

 「日本海側だけでは到底、天下を統一したとはいえない」と、弥生時代の出雲を軽く見る人もいるかもしれません。しかし、ヤマト以前の日本で、これほど広範囲に独自の墓文化を広めたケースはほかになかったことも事実。

 ヤマト王権は、前方後円墳という共通の形をした墓を広めることで全国支配を行ったことから「前方後円墳国家」と呼ぶ研究者もいるくらいです。
 その先駆者である出雲、つまりオオクニヌシが『古事記』で「はじめて国を作った神」と紹介されたのは、こうした偉業があったからといえます。

 オオクニヌシはまさしく日本初の「天下人」なのでした。

オオクニヌシをまつる主な神社

出雲大社 島根県出雲市大社町杵築東 電話:0853・53・3100

弥生時代までは大社や斐伊川がある西部が出雲の中心でしたが、実は古墳時代においては東部(松江市周辺)のほうに国府が置かれ発展していました。オオクニヌシら神話の神々は一体どちらを拠点としていたのでしょうか。

 

 

日本の神様と神社 神話と歴史の謎を解く (講談社+α文庫)

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出雲と大和――古代国家の原像をたずねて (岩波新書)

出雲と大和――古代国家の原像をたずねて (岩波新書)

 

 

ツキノワグマの子殺しと仮面イクメン

1月15日(日)夜のNHKスペシャル | 森の王者 ツキノワグマ~母と子の知られざる物語~を見ました。

なんとなく見てたのですが、途中で残酷な自然の「性」を目の当たりにして、希望そして絶望を味わいました。

 

オスの“子殺し”という研究者さえ知らなかった驚きの生態まで記録されている。

というエピソードです。

 

 クマの雄はメスと交尾したいがために、メスが育てている幼いコグマをころすのです。

 もうビックリしました。

 必死に止めようとして自分より大きなカラダの雄に立ち向かうメスの次郎(なぜか名前が次郎)

 しかし、そのかいなく、無残にも雄に命をたたれる2匹のコグマ。

 そのあと、オスは次郎と交尾するのです。

 次郎は母としての悲しさでもちろんうなだれるのですが、ここからが切ない。生物として生殖、繁殖という定められたスイッチに従って子がなくなることで、この我が子をころしたオスと交尾するためにその性のはけ口を受け入れるのです。生き物としての悲しさ、やるせなさったらありません。

 しかし、そんな悲しみをのりこえて、翌年の春、次郎は2匹のコグマとともに春を迎えるのです。いやー感動しました。直後に落石があたって子グマが転落したけど、無事だったときには涙出そうになりました。

 しかししかし、そんな希望と感動も一瞬で奪い去られます。

 なんということでしょうか、次郎は2年続けて、別のオスに我が子を2匹ともまたも奪われるのです。

 うなだれた次郎。そこにオスが近づいてきます。交尾を求める仕草をするオス。マタギじゃなくても、火縄銃もって今から群馬にいってうちころしたいという思いに駆り立てられましたよ。

 次郎はまた立ち上がります。オスの求めに応じて森の中へと入っていくのです。カラダがもうクマというよりもたぬきくらい小さくなったようになりながら。。。

 この精神的なショックで次郎は死んでしまうのではないか、クマを追い続けてきた動物カメラマンさんは心配します。カメラマンと視聴者の願い虚しく、2016年の冬眠まで次郎の行方は結局わからなくないまま冬をむかえました。

 人間ならみずから命をたつのではないかと思ってしまうほど、悲惨な結末で番組は終わりましたが、2017年春に、それでもしぶとく生命の強さを次郎が見せてくれるのか、わずかな希望を抱くことしかわたしはできませんでした。

映画「セブン」なみの後味の悪さ。ノンフィクションだからなおさらです。

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 たまたま、その後、読んだブログが下の記事でした。

www.stellacafe7.com

 

 よくある(と言ったら失礼ですね、すみません)育児と父親のダメンズぶりを紹介する内容なのですが、ふつうなら「あるある」と笑ってすませるところですが、

 あの番組をみたあとだったので、ブログに書かれていた以下のような「江戸しぐさ」ならぬ「父親しぐさ」。

第9位子どもみたいに構って欲しがる

第7位 「子供泣いてるよ?」「部屋が汚いね」など他人事なセリフ

第1位 子どもの世話よりもスマホゲームに夢中

 こういったことが多くの父親というものにつきまとうのか、かねてから疑問だったのですが、「もしかしてDNA的な、クマ的な、もうどうしようもないくらい原始的な性(さが)なの?」と思ってしまいました。

 根拠はないですよ。感じただけです。

 ただ、いろいろ思い浮かぶのです。

 何年か前に、自衛隊で単身赴任中の父親が、家に帰ったら家族がいまいち相手にしてくれなくて、なんと家を放火。家族全員をしなせるという事件がありましたよね。

 帰るときに妻が見送りをしなかったから、が理由と報じられました。

杵築市放火殺人事件 - Enpedia

 そして、最近では某カリスママンガ編集者容疑者のお話。本人が容疑を否定しているそうなので容疑についてはわかりませんが、

www.zakzak.co.jp

 

 3人目の子供の誕生をきっかけに育児休暇を取った。2012年7月の朝日新聞のコラムでその頃を振り返り、こう記している。

 「その感想は、『主婦ってこんなに大変なの!?』の一言。やってもやっても仕事が途切れない(中略)それでいて誰にも評価されない、誰からも褒められない。子どもたちに始終、囲まれているはずなのに孤独感が心を覆う。会社に行く方が、ずっと楽だと思いました」

 

 と、育休をとったとしながら、

実は

 

 「周囲はみな、(朴容疑者を)良い父親だと思っているが、そんなことない。育休を取っても子育てに参加してくれない」

 捜査関係者によると、妻の佳菜子さんは事件前、文京区の子ども家庭支援センターに「夫に子育てをめぐって暴力を振るわれている」と相談していたという。佳菜子さんはさらに「育児と仕事を両立できないなら、仕事を辞めろといわれた」「夫は『女は家庭にいるのが幸せ』だと思っている」などと漏らしていたという。

 

 

 という仮面「育休」だったという報道もありました。

www.sankei.com

 考えてもみなかったことですが、こうやって育休を取りながら、家ではゴロゴロして、奥さんに家事を任せっぱなしという自称「イクメン」が日本にはそれなりの数が存在するのではないかと、思いぞっとしたのです。

 「わたし、妻や子のために育休とりました。本当に母親って大変ですね。やって初めて大変さがわかりました」キラーン

 という人当たりのいいパパの中に、ツキノワグマなオス性が顔をもたげていたらホラーだなぁと思った次第です。

 世の父親さまにおかれましては、自分の中に野生があることを認識つつ、人間としての知性と理性で、真のイクメンとなり、日本を子どもたちにとってもよい社会にしていこうではありませんか。

【追記】そして今朝にはこんなニュースも。この男の顔がツキノワグマにしかみえません。